シカの約束

昔、バーラーナシーの都に住む財産家に、一人の息子が生まれた。両親はその子にマハーダナカと名づけた。

彼の両親は、その一人の息子の育て方を話し合った。
──なまじっかの学問などさせると、たぶん一日中本を読んでいたり、字を書いていたり、また考え事をして、じっと座ってばかりいるようになるかもしれない。
そう考えて、息子には何一つ教えもせず学ばせもしないまま大きくしてしまった。何の勉強もしなかったマハーダナカの楽しみは、食べること、酒を飲むこと、そして酔って大きな声で歌うことと、歌に合わせて踊ることといったように、遊ぶことばかりだった。そのうえ彼の友達も、彼に輪をかけたように、ただもう一日をおもしろおかしく遊び暮らすような道楽息子ばかりだった。
年ごろになると彼の両親は、家柄、財産の似合った家から嫁を迎えてくれたが、その後数年のうちに相次いで死んでしまった。

両親が死んでしまうと、彼の遊びはなおいっそう野放図になり、ばくち打ちとか飲んだくれの悪い友達ばかり増え、両親の残してくれたばくだいな財産もあっという間に使い果たしてしまった。おまけに山ほどの借金までしてしまい、毎日毎日借金取りに矢の催促を受ける始末だった。

──ああ、この間まであんなにお金があって、何一つ不自由なく、毎日毎日が楽しくておもしろくてならなかったのに、どうしてこんな情けない羽目になってしまったのだろう。これじゃ死んでしまったほうがよっぽど楽だ。
マハーダナカは自分勝手な考えを起こした。そして一計を立てた。早速、大勢の借金取りに証文を持ってくるようにといって呼び寄せた。
借金取りが集まると、彼は皆を率いてガンジス河の岸辺に連れていった。
「皆さん、実はこの河の岸辺に、わたしの一族がこっそりと財産を埋めておいたそうです。皆さんにご迷惑をかけてばかりいたので、今日はそれを掘り出して皆さんにお返ししたいと思います。」
彼はまことしやかなうそをついた。そして、あの岩の下だ、いやこちらの石の下だ、あの葦(あし)の中だなど、ありもしない宝探しを、大勢の借金取りにさせるのだった。そして自分はその騒ぎに紛れて、ザブンと河に身を投げてしまった。河は水量が多く、流れは速かった。彼は波にもまれながら、急流を木の葉のように流されていった。
「だれか、だれか助けてくれ。」
急流の中で悲鳴を上げながら、彼はどんどん下流へと流されていった。

河の下流の岸辺には、美しい花を枝いっぱいに咲かせているマンゴーの林があった。また、サラソウ樹の葉も茂り、絵のように美しいところであった。マンゴーの林からは、甘い花の香りが漂ってくるのだった。

その美しい林の中に、ルルと呼ばれるシカが住んでいた。ルルの美しさ、すばらしさは比類ないものだった。手足は牛乳のように白く、しっぽは長くりっぱだった。全身は輝くような金色の毛で柔らかく覆われていた。二本の角は夜空の星に似て、銀色に光っていた。そのうえ優しい目は、まるで宝石をみがき上げたように黒々として、口を開けると、その舌は目が覚めるような鮮やかな朱の色をしていた。
ルルはぐっすりと眠っていたのだが、どこからか叫び声が聞こえるような気がして、目を覚ました。耳を澄ますと、やはり河の方から声が聞こえた。
「きっとだれかがおぼれかけて、助けを呼んでいるのだ。」
そこですくっと立ち上がると、河に向かって走っていった。そして河の中ほどで苦しんでいる男を見ると、恐れることなく急流に飛び込んだ。ルルは男を背中に乗せて流れを泳ぎ渡り、林の中の住みかに連れて帰った。
マハーダナカは、この金色のシカから母親のような行き届いた、優しく慈愛にあふれた介抱を受けた。二、三日もすると、もうすっかり元気になっていた。そこでルルはマハーダナカに言った。
「この森を抜けてバーラーナシーにまっすぐ行ける道まで、あなたを送って行きましょう。けれど一つだけ、大事な約束があるのです。いいですか、この森の中でわたしに出会ったことだけは、どんなことがあっても、だれにも言ってはいけません。この約束だけは必ず守ってくださいね。」
彼はシカに約束をし、無事にバーラーナシーに帰ることができた。

そのころ、王の妃のケーマーは不思議な夢を見た。それは神々しいほどりっぱな金色のシカから教えを聞く夢であった。目が覚めても、そのシカのおごそかな様子が鮮やかに目に残り、なぜか心が洗われるような思いがするのだった。
──もしかしたら、これは夢ではなくて本当のことかもしれないわ。この近くに、きっと夢の中にいたシカ、あの金色のシカがいるのかもしれない。

そう思うと、妃は王に頼んでぜひそのシカを探し出してもらおうとせがんだ。
「王さま、そのそのシカは本当に輝くような金色をしていました。そして優しい声で、教えを説いてくださいましたの。」
王は、学者たちを呼び集めて金色のシカのことを尋ねた。その中の一人は答えた。
「たしか、おごそかに法を説く黄金のシカがいるという話を聞いたことがございます。」
王は早速一つのうたを作り、それを金の板に彫らせて国中に触れ回らせた。

だれが受け取る 我がほうび
肥沃な村と 美女たちを
黄金(こがね)に輝く シカの王
我に知らせよ その所在

愚かなうそつきのマハーダナカは、この布告を読むと王を訪ね、シカの所在を知らせると言ってうたを唱えた。

わたしにください そのほうび
肥沃な村と 美女たちを
シカの中なる そのシカの
わたしは居場所を 告げましょう

マハーダナカは王や王の軍隊を案内し、あのマンゴーの花咲く林にやって来た。ルルの住みかの近くまで来ると、その場所を指さしてうたった。

青く茂った サラソウ樹
マンゴーの花 萌(も)え盛り
天の香(か)放つ あの辺り
輝くシカが 住んでます

ルルは森が騒がしいので、たぶん自分を捕らえに大勢の人間がやってきたのだなと直感した。見ると、すでに森はすっかり囲まれていた。るるはどこか一か所ぐらい抜け道はないだろうかと、辺りを見回した。しかし、自分を取り囲む軍隊で、アリのはい出るすきまもなかった。その時ルルは、はっと気がついた。王のそばだ。王の方に矢を向ける者はいない。王のそばこそ、唯一安全な場所だと。

ルルは王は全速力で走っていった。王は自分目がけて走ってくるシカを見て、思わず矢をつがえて構えた。
ルルは大きな声で王にうたいかけた。

偉大な王よ しばし待て
わたしを射ては いけません
わたしがここに いることを
だれが告げたか 大王に

王は、シカの美しい声や堂々とした様子に驚き、弓矢を下ろした。シカはすくっと王のそばに立った。家来たちも、武器を捨てて王とシカの周りに集まった。これを見て、マハーダナカは後ずさりした。

シカはまるで金の鈴が鳴るような澄んだ声で、王に尋ねた。
「王さま、ここにわたしが住んでいることをあなたに告げたのはだれですか。」
王はぐるりと見回し、マハーダナカを見つけると彼を指さした。

黄金(おうごん)に 輝くシカの住む所
ひそかに告げた 男あり
あそこで退く あの男
その名はたしか マハーダナカ

ルルはガンジス河の急流の中からやっと助けた彼が、大切な約束を簡単に破ってしまったことを悲しんだ。そして王に言った。
「心ない者を救うより、河を流れてくる流木一本を拾ったほうがましだと人から聞いたことがありますが、本当なのですね。」

王はその嘆きを聞いて、ルルに尋ねた。
「いったいあなたはだれを責めているのですか。獣ですか、鳥ですか、それとももしや人間ですか。」
「マハーダナカという男を、わたしは河から救ったのです。激しい急流に流されていくのを。それが今日の災難のもとになるなんて。友を選ぶのは難しいですね。心卑しい人もいるのですから。」
王はこの話を聞くと、情けなく、また恥ずかしく、彼に対する怒りでいっぱいになった。
「わたしの矢は、四枚の羽を持って飛び立つ鳥ですら射抜いてしまう。その矢で、裏切り者で恩知らずのあの男を、あなたに代わって射抜いてやりましょう。」
「王よ、あの男はものの道理をわきまえていない愚かな男です。あんな男を射ることはあなたの弓矢が汚れます。あんな男を相手にするのはやめましょう。ほうびも与えたらいいでしょう。」
王はその寛大な心に、改めて教えられる思いがした。
「金色の輝くシカよ。あなたをだましたあの愚かな男は、まただれかをだますでしょうよ。けれどわたしは彼を許しましょう。約束どおりほうびも与えましょう。あなたはどうぞご自由になさってください。」
ルルは王の目を真っすぐに見つめながらうたった。

獣の叫び 鳥の声
聞けば気持ちが よく分かる
けれどこの世に 一つだけ
信じられない ものがある
それは人間の 言葉です
喜び合った その後で
すぐまた互いに 憎み合い
人に会ったら しっかりと
考えなければ なりません
信頼できるか できないか

王はいつの間にか目を伏せていたが、顔を上げると、ルルをしっかりと見つめた。
「シカよ、わたしは王です。愚かな卑しいあの男とは違います。わたしはわたしの王国をかけて、あなたとの約束を破るようなことは決してしません。」

王はそのあかしとして、ルルの言うどんな願いもかなえると言った。
「本当ですか。それではすべての生き物が安心して暮らしていけるようにしてください。」

ルルは王について都へ行き、いつか妃が夢で見たのとそっくり同じように、おごそかに教えを説いていた。

ルルの声は澄んでいた。心にしみるような人間の言葉で王や妃、その他すべての人々に教えを説いた。そして再びマンゴーの花の咲く、ガンジス河の岸辺の森へ帰っていった。
王はルルとの約束の触れを国中に出した。またそのために、シカや獣の群れが畑の作物などを荒らしても、捕ったり、殺したりすることも禁じた。
その結果、あちらこちらの村や町から、多くの人が王に陳情にくるようになった。作物や穀類をシカの群れに食べられて困ると、被害を訴えるのだったが、王は苦しそうに答えるのだった。

みんなの愛を 失って
この王国 失って
たとえすべてを なくしても
わたしは守る 約束を
殺生しない 約束を
みんながわたしを 見捨てても
そのため国が 滅んでも
ルルとの約束 破れない
殺生しない 約束を

王の、約束を守る固い決心を知ると、人々はどうすることもできず、また町や村へと帰っていった。

この話を聞いたルルは、シカの群れに命令した。
「王さまの約束があるからといって、いい気になって畑を荒らしたりしてはいけない。」
そして人々にも、畑には木の葉を結んだ印をつけ、これはシカの食べ物ではないという目印にするように告げた。その後は畑の作物を荒らされることがなくなったという。この印があると、今もシカは穀物を食べないそうだ。

ジャータカ482

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