ライオンと山犬

昔、山の洞窟にライオンが住んでいた。

ある日、食べ物を探しながらふもとをさまよっていると、美しい湖のほとりに出た。湖の上をシラサギが楽しそうに群れをなして飛んでいた。ライオンはしばらくその群れをながめていたが、湖の中にある小さな島に丸々と太ったシカがいて、柔らかな草を食べているのが目についた。
──おいしそうなシカだな。よし、ごちそうになるとするか。ふん、どのくらい離れているかな。
ライオンは島までの距離を目で測った。
ウォーとほえた。そして走った。弾みをつけ、湖のふちで地をけって跳ね上がった。ライオンの体は宙に浮いた。
「しまった。」
どろが辺りに跳ね上がった。ライオンの体は、どろの中にのめり込んでしまった。思いがけないことだった。その島には若草が茂っていて、ウサギやシカがおいしそうにその草を食べているのをながめると普通の島のように思えた。
ところがこの島は、どろの島だった。ウサギなど、軽い体の小動物ならなんともなかった。はんがわきのどろの上を小走りに走ることもできた。だが、ライオンのような重い体が、しかも勢いをつけて、身を翻(ひるがえ)して飛び込んだからたまらない。どろの中にブスリとのめり込むのは当たり前だった。
シカはびっくりしてピョンと飛んで逃げていった。ライオンは慌てた。どろの中から抜け出そうともがくと、あべこべにずるずると体がどろの底へ沈んでいった。そして、どろがライオンの体を四方から締めつけた。軽率なことをやったものだ。ライオンは後悔した。
──助けてくれ。
ライオンは叫びたかった。しかし、ライオンは百獣の王である。女々しい泣き声を立てるわけにはいかなかった。

ライオンは七日間何も食べず、どろの中から首を出したままどろに埋まっていた。体を動かせばずるずると底に沈むから、そのままじっと我慢するしかなかった。このままでは飢えて死ぬよりほかになかった。のどはからからに渇いた。

そこへ、ひょっこりと山犬が通りかかった。
「ヒャ、危ない。」
山犬は身震いした。ライオンがぎょろりと目を光らせているのを見たのだ。
らいおんはもう息も絶え絶えだった。弱りきっていた。それだけに、落ちくぼんでぎょろりとした目は恐ろしげに光った。今にも飛びつかれそうに感じて、山犬は一瞬逃げようとした。
その時、ライオンは言った。
「山犬よ、逃げることはない。」
飛び去ろうとした山犬は、その声を聞くと、体からちょっと力を抜いた。ライオンは言葉を続けた。
「山犬よ、恐れることはない。これこのとおり、わしはどろに足を取られて動けないでいる。わしを助けてくれないか。」
山犬はライオンの頭を見つけた時、今にもライオンが飛びかかってくるように思えた。しかしよく見ると、なるほどライオンの言うとおり、らいおんは体がどろの中に閉じこめられて動けないのだ。これでは怖くはない、急いで逃げるには及ばないと思った。
「おれはお前さんを助けたいと思う。けれど、やめる。」
「どうしてだ。」
「助けるってことは、裏切りの種をまくことだ。それだけのことだ。」
「裏切りだと。」
「そうなんだ。おれは助けたいという情けを心の中にいつもあふれさせている。けれどこれまで、助けたやつに裏切られてばかりいた。あいつを助けてやらなければこんな悲しい目には遭わなかったろうと、何回も後悔させられているのだ。今だってせっかく助けて食べられるのではかなわないからな。助けることはやめるよ。」
「世の中のやつらは信用できぬということか。」
「そうだ。俺はひどい目にばかり遭っているんだ。」
「百獣の王のわしまで、信用できぬというのか。」
ライオンの恨めしそうな顔を見ると、情け深い山犬の心は動揺した。
──これまでの経験によると、助けた後には必ずといっていいくらい、そいつに裏切られた。その悔しさったらない。しかし、助けてあげるという気持ちは、また格別だ。人を助けるすがすがしい気持ちと、後で裏切られる口惜しさ、さて、どちらが重いか。そうだ。おれには人を助けるすがすがしい気持ちのほうが大切だ。
山犬はそう思うと、にっこりとしてライオンに言った。
「助けてあげることにするよ。」
ライオンの顔から、うらめしそうな光りが消えた。
「頼む、俺は裏切りなんかしない。一生、恩にきるよ。」
「その言葉を信じることにしよう。」

情け深い山犬は、そう言いながらライオンのそばに近づき、周りに深いみぞを掘った。そしてそのみぞの中に水を注ぎ込んだ。すると、ライオンの体を締めつけていたどろが崩れ始めた。

山犬はさっとライオンの腹の下に入り込み、ライオンを肩で担ぎ上げた。
「よいしょ。」
とだんに、ライオンの体は跳ねた。島はどろの所ばかりではなかった。傍に大きな岩が出っ張っていた。ライオンは大岩に跳ね上がった。
「ありがとう。約束は必ず守るよ。」
ライオンは頭を下げた。
「百獣の王が泥まみれじゃ、威厳(いげん)が損なわれます。さあ、体を洗いましょう。」
「うん、そうだな。」
ライオンは湖の中に入って体を洗った。七日も絶食をしていたから、体は弱りきっていた。しかし、どろを洗い落とすと、りんりんとした勇ましい姿によみがえった。目も鋭く光った。
山犬は、はっとして身構えた。そしてじりじりと後ずさりした。今にも飛びかかってきそうなライオンを警戒したのである。
「おい、勘違いしないでくれ。」
ライオンは首を振った。
「危ないときには用心しなくては。」
山犬はにやりとした
「お前はわしの命の恩人だ。勘違いしないでくれ。」
ライオンは、なるほど七日間なにも食べていない。腹はぺこぺこだ。しかし、恩人の山犬を食べようなどとは考えていなかった。ところが山犬のほうは身構えたままだ。
「わしは百獣の王だ。裏切るなんて卑劣なことはやらぬ。体面というものがある。」
山犬はうなずいた。

その時、そばへのんびりと水牛がやってきた。湖で水浴びをしようと、のそのそとやって来たのだ。
それを見た瞬間、ライオンは目にも止まらぬ速さでその水牛を捕まえた。まさに百獣の王の鮮やかさだった。大きなずうたいの水牛は、のど首をかみ切られると、どたりとその場に倒れた。

ライオンはその肉をかみ切って山犬に言った。
「水牛は、盛り上がった肩に肉がいちばんおいしいんだ。さあ。」
山犬はびっくりして、ただじっと見つめたままだった。
「わしも腹ぺこだが、君だって腹がすいているんだろう。さあ、どうだ。」
「いや、あなたから、どうぞ。」
「君はわしの恩人だ。恩人からまず、おいしい所を食べてもらわなくてはね。」
「じゃ、お先にいただきます。」
山犬はおいしい肩の肉に飛びついた。山犬も朝からなにも食べていなかった。腹ぺこだった。新鮮な水牛の肉はおいしかった。そのうえに、なにはともあれ百獣の王の命を救ったのだ。いいことをしたのだ。いいことをした後の心は満足で、秋の空のようにすっきりと晴れるものだ。だから、数倍、おいしかった。
山犬は腹いっぱい食べた。もちろんライオンもがつがつと食べた。水牛は大きいので、腹のすいた山犬とライオンが、腹がはちきれるほど食べても食いきれなかった。肉は、まだ残っていた。
山犬は言った。
「あなたの奥さんは、腹をすかしてあなたの帰りを待っておられるでしょう。お土産を。」
ライオンもにっこりと笑って言った。
「君の奥さんにも、お土産を。」
ライオンと山犬は、仲むつまじい兄弟のように笑い合った。ライオンはちょっと考えてから山犬に言った。
「わしは、あの山のふもとの洞窟に住んでいるんだが、近くに同じくらいの大きさの洞窟がある。君たち夫婦はそこに住まないか。わしらは、これから隣同士になろう。」
「ありがたいことです。」
「わしといっしょにいれば、君たち、これから飢えることはないぞ。」
「願ったり、かなったりです。」
山犬の疑いも、春の雪のように解けていった。
ライオンの勧めで、山犬一家はライオンの住む洞窟の隣の洞窟に移った。
ライオンの洞窟は山の中腹にあった。足の下には広大なジャングルが広がっていた。あちこちに湖が光っていた。その湖には美しいハスの花が咲いていた。青い空には、ハゲワシが舞っていた。すばらしいながめだった。明け方には金色の太陽が昇ってきた。
「生まれ変わったみたいだ。」
山犬は明るい顔をした。今までこんな明るい顔をしたことはなかった。山犬はライオンの心を疑わなかったし、ライオンは山犬の恩を忘れなかった。山犬が速い足を利用して獲物を探し出すと、ライオンが飛びかかって捕まえた。だから、山犬の家族はいつもおいしいごちそうにありつけた。
ライオンと山犬の家族の住む洞窟の上は、毎日澄んだ青空が広がっていた。平和とはこのようなものであろうか。山犬は毎日の暮らしが楽しく、幸せを全身に感じていた。

ところで、澄んだ青空でも時にはすみっこに黒い雨雲が浮かぶことがある。山犬は知らなかったが、幸せな彼らの生活にも、黒い雨雲が浮かんでいたのだった。

実は、ライオンの妻が、山犬と隣同士になるのをきらったのだ。妻のその心はこの平和な暮らしにとって黒い雨雲だった。
妻は気位が高かった。
──百獣の王たる者が下品な山犬と隣組になるなんて、汚らわしい。
妻はそう思って不愉快だった。
今日も仲良く獲物を探しにいき、おいしいシカを捕まえて帰ってきた夫に、妻は言った。
「わたし、食べたくありません。捨ててください。」
夫のライオンは、びっくりした顔で尋ねた。
「どうしたんだ。」
「そのシカは、山犬が見つけたんでしょ。」
「そうだよ。やつは足が速い。やつは、見つけるや否や飛び出してわしの方へ追い込んでくれる。山犬がいなかったら取り逃がしたかもしれん。」
「じゃ、そのシカは、山犬のものでしょう。山犬にあげなさい。」
「おい、むきになるなよ。このシカは、山犬が見つけたのを、わしが捕まえた。平等に分け合えばいいんだ。」
「私たちは百獣の王です。汚らわしい山犬なんかと平等だなんて言わないでください。」
「お前は山犬といっしょにに暮らすのがいやなのかね。」
「もちろんです。山犬は下品な動物です。お互いに悪口を言い合い、ほかが幸せになるとねたんで寄ってたかっていじめ、自分の利益だけを考える動物です。そんな卑しい者と私たちが隣同士になるなんて、真っ平です。」
「でも、あの山犬は、わしを助けてくれたんだぞ。」
「分かっています。だから黙っていたのですが、今までにずいぶん、あなたが捕まえたごちそうを食べさせてやりました。そのごちそうで恩返しがすんだわけでしょう。そろそろ、さよならをしてください。」
ライオンは、ふむと深いため息をついて考え込んだ。それから妻に言った。
「なるほど、わしらは百獣の王だ。山犬は卑しいやつらかもしれない。それは知っている。けれども、尊いのは心だ。あいつは、百獣の王であるわしらに劣らぬ、すばらしい心を持っている。」
「口がうまいだけでしょう。心の悪い者ほど口がうまい。心にもない巧みなことを言い、顔色もうまくそれに合わせます。あんたは、ごまかされているのです。」
「違う。」
夫のライオンは言った。
「ごまかされていない証拠がありますか。」
「ある。」
「あなたは、ぞっこん、だまされています。」
「違う。わしがどろの中にのめり込み半死半生の時だった。あいつはこう言った。真剣な顔でね。『わたしは今まで、助けた後に必ずといっていいくらいに、助けた相手に裏切られた』とまず言った……。」
それを聞くと、妻は声を荒げていった。
「そうでしょう。山犬という動物はそういう卑しいやつらです。助けられた恩をあだで返すやつらだと聞いています。」
「うん、わしもそれを聞いているが、あいつはちょっと違った。」
「違うものですか。」
「あいつは、次に言ったのだ。『人を助けるすがすがしい気持ちと、裏切られての口惜しさと、どちらが重いか』ってね。」
「それ、裏切られてもいい、助けてあげたい、っていう意味?」
「うん、そうだ。」
「まあ。」
ライオンの妻は大きく目を見開いた。
「わしとあいつは、今まで知り合いじゃなかった。だからわしがどんなに苦しんでいようと、見ないふりをして去っていけばいいのだ。もしかすると、助けた後で食い殺されるかもしれないのだ。しかしあいつは助け合うことの尊さを知っているのだ。すばらしいではないか。」
妻は、こっくりとうなずいた。
「あいつは、すばらしい心を持っている。おれたちの心と変わらない。心が変わらないなら、いっしょに暮らす資格があるというものだ。」
夫の話を聞いているうちに、妻の心の中の黒い雲は少しずつ薄れていった。
「おれは、助けられたという恩を感ずるよりも、あいつの心にほれ込んだのだ。」
妻は小さく吐息をついた。
夫は一息ついでから、言葉を続けた。
「わしは山犬に助けられた時に、その百獣の王に劣らぬ精神にほれ込んで断じて裏切りはやらないと固く約束したが、息子や孫に、それを忘れるのではないぞと遺言するつもりだ。」
「分かりました。」
妻は、夫のライオンに頭を下げた。

山犬とライオンの家族はいよいよ仲むつまじくなった。そして、両親が世を去ってからも、子や孫たちのむつまじい仲は変わらなかった。それは森中の評判になった。この家族同士の仲良しぶりは、七代も続いて変わらなかったという。

ジャータカ157

類話:鼻奈耶5、十誦律36、根本説一切有部毘奈耶破僧事19

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