仏教語バックナンバー

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1999/08  あいきょう

「愛嬌」と書く。主として、女の人や商人たちがニコニコして人付き合いのよいことを言う。

もともとは「愛敬」と書き、佛・菩薩が柔和(にゅうわ)と慈悲の相(そう)を備え、人々が自然と敬愛の念を覚えざるを得なくなる、そのような容貌を「愛敬相」と言ったことから起こった言葉である。昔は「アイギョウ」と濁った読みをしており、江戸時代以降に清音で読むようになったと言われている。

最近ではこの「愛敬相」を備えた人がめっきり減ったような気がします。仕事に追われ、時間に追われ、人のことには関わってはいられなくなった。しかし、仏教を信仰するものにとって、佛・菩薩が備える「愛敬相」は悟りへの第一歩ではないのでしょうか。赤ん坊を見るときの顔、それこそが「愛敬相」だと私は思います。

これは仏教徒に限ったことではないと思います。赤ん坊を見るときの顔、いつまでも忘れずにいたいものです。

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1999/09  料簡(りょうけん)

現在は「考え」「思案」という意味で「料簡がせまい」「とんだ料簡違いだ」などと使われる。もともとは、「教法の意義を分別して解釈すること」を『料簡』といいました。「教法」とは教典に書かれていることでその意味をきちんと解釈するという意味になります。

現在の意味で使うと、すぐにキレル若者は、「料簡がせまい」ではなく「料簡がない」に等しくなります。相手に言われたことにたいして考えもせず、ただ自分の思っていることにそぐわないだけで、その相手を傷つける。せめて「料簡がせまい」ぐらいにはなってほしいものです。

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1999/10  ジャン・ケン・ポン

料簡法意(りゃんけんほうい)からきたといわれている。

意味は「法の意志を料簡する」、すなわち物事を決めるときはこれを用いるということである。つまり、天の意志を拳の勝負で推し量ろうと言うこと。であるから、ジャンケンをするときは相手が何を出すとか考えずに、無心で行うのが本当であろう。でなければ、天の意志を正しく料簡できないことになってしまいます。

何事も「ジャン・ケン・ポン」で決めることができればどんなによいことか・・・

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1999/11  引導をわたす

「殺してやる」という宣告や、「もうこれで終わり」というように最後通牒をつきつけて、相手にあきらめさせるという意味に用いられる。

もともとは葬式の時、死者が悟りを開いて成仏できるように導師が教え諭す言葉を指しました。さらにさかのぼれば、人生に迷っている人を教えて、「仏道に引き入れ導く」ことを指したのです。つまり、現在の意味で用いるのはもとの意味とは正反対なのです。

現在でもお葬式の時、成仏できるように引導をわたす儀式を行っています。一度お葬式の時よく見てください。真ん中のお坊さんが一人でなにやら読んでいるときがそうです。その読み物を『引導文』といいます。よく聞いてみてください。悟りがひらけるかも・・・

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1999/12  外道(げどう)

仏教以外の教え、またはその信奉者を仏教徒がこう呼んだのが始まりである。「外(ほか)の道」という意味だが、それよりは「道に外れている」という意味合いの方が強くなり他を罵る言葉となった。

なんの道から外れるかはそのときの行いにもよるが、一般的な当たり前からははずれたくないものである。近頃は一般的な当たり前が変わりつつあるように思える。子供の教育より、それを教える親などの大人を教育するべきであろう。あまりにも一般的な当たり前から外れた若者の「外道」が増えすぎである、と思う。

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2000/01  がらんどう

漢字で書くと「伽藍堂」となる。
意味としては、中に何も入っていない、もしくは建物内に誰もいないときなどに使われる。これはみなさんご承知のことと思います。

では、由来はというと読んで字の如しです。伽藍というのは寺、堂は神仏を祀るとか、多くの人を入れるための建物のことを指します。「堂」は大きくて広く、また立派な建物には「〜堂」と、とかく「堂」をつけ「正々堂々」などのように、小細工のない、貫禄があることを形容するときにも使います。ここから学問や技芸が身に付いてきたりすると「堂にいる」と言ったりするようになってきました。「伽藍」とは、寺院の建物の配置のことを言います。

寺院は昔から広く大きな建物で、普段は人気(ひとけ)がなく閑かなたたずまいを誇っていました。そこから「がらんどう」という形容詞が生まれてきたと言われています。何もない部屋を「ガランとしてるね〜」と使うのもこの語源です。建物や部屋がガランとしているのは別にかまいません。

しかし、頭の中が「がらんどう」なのはいただけません。特に受験生であられる方にとってはとんでもないことです。だからといって詰まりすぎているのもよくありません。頭でっかちにならず、少しは余裕を持って生きていくのが望ましいと思います。

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2000/02  有頂天(うちょうてん)

天界にある九天の中の最高の天名のこと。この天に昇れば、どんな望みも叶えられないことはない。そこから、夢中になったり、得意の絶頂になっていることを指すようになった。

しかし、人は仏教の世界においては迷いの中に存在している。だからちょっとしたことで喜んでいると、たちまち地獄へ転落する可能性もあるわけである。よい例が今の日本経済である。景気がよいと喜んで「有頂天」になっているから、バブルが弾けると不景気のどん底にたたき落とされたわけである。そうならぬよう常に謙虚な気持ちでいたところはどうであったろうか?

人間いつも謙虚な姿勢でいるべきことを身をもって知ったのではないだろうか?

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2000/03  奈落(ならく)

梵語ナラカの当て字である。泥梨(ないり)とも書かれ、地獄のことを指す。「奈落の底」とは物事の最終、はてのはてを言う。

地獄とは、この世で悪業の限りをつくした人間が堕ちて*1呵責(かしゃく)を受ける地下の牢獄。その位置は*2南瞻部州(なんせんぶしゅう)の地下二万*3由旬(ゆじゅん)のところ、及び*4鉄囲山(てっちせん)の外辺、日月の光も届かないところで、八熱地獄と八寒地獄とがある。この八熱・八寒地獄には、それぞれに四つの門があり、その門ごとにまた四つの地獄がある。すなわち、4×4=16となり、16の小地獄があることになる。この16の小地獄のことを十六遊増地獄という。ここに堕ちた罪人たちは、次第に各地極を遊歴するので「遊増(ゆぞう)」と名前が付いている。

さて、この世に悪業をつんで、その結果奈落である地獄に堕ちて閻魔大王の裁きを受けるわけですが、ここで力を発揮するのがなんとお金なのです。それをたとえたことわざが「地獄の沙汰も金次第」です。「沙汰」とは裁断・裁きという意味です。お葬式で死者を納棺するとき、お金を少し入れるのをご存知ですか?これは三途の川を船で渡るときに船頭にわたすのもありますが、裁判を有利にするためのものでもあるわけです。ですから極楽へ往生してもらいたいと願うときは、少し多めにお金を入れるのもよいかもしれませんね。

しかし、現世では犯罪になるので行わないでください。それこそ死後奈落へ真っ逆さまということになりかねませんから・・・


*1もとは、僧侶を罰する七法の一つで、大勢の僧侶たちの面前で罪を犯した僧侶に呵責を宣告して「三十五事の権利」を奪うことであった。それが厳しく咎める・責めさいなむということになった。
*2閻浮提(えんぶだい)のこと。須弥(しゅみ)四州の一つ。中央に須弥山がある大陸の南方部分で、仏に会い仏法を聞くことでは第一とされる土地。インドをモデルに考えられたが、後に人間世界の称となり、現世の称となった。
*3梵語ヨージャナの当て字でインドの距離の単位。六町(一町=約110m)を一里として、四〇里・三〇里あるいは一六里のこと。
*4須弥四州の外海を囲む鉄の山のこと。

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2000/04  油断(ゆだん)

気をゆるすこと、不注意と同じ意味である。語源には各々説があり、順番に取り上げてみると以下の三つがあげられる。
  1. 昔インドの王様が一人の家臣に油の入った鉢を持って大衆の中を歩かせ、「もし一滴でも油をこぼせば命を断つぞ。」と言ったので、その家臣は一生懸命に油鉢を堅持して持ち歩き、無事にすんだ。という『涅槃経』の説。
  2. ウバキタ尊者という人が、捧げ持つ油皿から不注意で油をこぼしたのを一人の老女に見つかり、その無作法を責められた。という昔話『付法蔵伝』の説
  3.  
  4. 昔、不注意によって油がなくなる(断つ)と、灯火が消え、真っ暗になり大変だった。という説。

仏教的語源としては1であろうが、私としては3が語源として適当ではないだろうか。
いずれにせよ油断は大敵である。獅子は兎一匹捕まえるにも全力を尽くしてあたると言うが、人生日々の闘いにおいては、万事慎重の上にも慎重を重ねて対処する油断なき努力が、最後に笑いをもたらすのではないだろうか。

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2000/05  人間(にんげん)

説明するまでもなく人のことである。もとは天上界などに対し、人々が住む地上の世界を指した。

仏教の世界観において、人間に生まれる機会は極めてまれであり、多くは地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界に生まれ、苦しむだけでなく仏法を聞く機会がない。

天上界には快楽はあるが、ホトケになるためには人間界に生まれて修行しなければならない。人間界に生まれ仏法を聞く確率は、海上に漂う盲目の亀が浮いた木にたどり着くよりも困難であるといわれている。よって人間界に生まれ、仏法に巡り会うことの出来た我々は、この上ない幸福なのである。

人は孤立して存在するものではなく、二人以上の多くの仲間たちと共に生きる動物である。だから仏教思想では『人間』は、世間と切り離せない意味を持った言葉として使われた。

ところで、「人」には「ニン」と「ジン」と読む場合があり、「ニン」と読む熟語には人間性そのものが強く感じられるが、「ジン」と読む熟語の場合はどちらかというと一種の「物」としてとらえているように見られる。最近は世間から孤立する傾向が目立っている。このままいけば「にんげん」は「ジンゲン」になってはしまわないだろうか?

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2000/06  玄関

ご存知の通り建物の正面にある入り口のことである。
元来「玄妙な仏道に入る関門」という意味であった。

特に禅宗寺院では禅学入門の第一歩を記す場所として重んじられた。今でもが許されるまで、何日でも式台(客の送迎のために礼をする一段低くなった板敷きの場所)の上にうずくまって声のかかるのを待つ修行僧を見かける大寺院もあるらしい。

中国では後世になってから書院の入り口を『玄関』というようになったらしいが、これは幽玄な論談の交わされている室にはいるのが難しいことを例えたものだそうです。

これほど格式ばった『玄関』が今では一般に普及して、どこの家や料亭でも『玄関』をつくるようになり、さらにはアパートやマンションなどの単なる入り口である勝手口を、『玄関』らしい構えがないにも関わらず、建築上「玄関口」と呼ぶ傾向になっている。

結構大層な意味を持つ『玄関』、「履き物はそろえて脱ぎなさい!」と小さい頃親からよく言われたのがわかるような気がする。だが、親はほんとに『玄関』の意味を分かった上で使っていたのだろうか?

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2000/07  縁

一般には吉凶のしるしに使われる。
仏教では、原因と結果の仲立ちをする作用のことを指し、最も重要な言葉のひとつでもある。
「因縁」や「縁起」と元を同じくする言葉でもあり、色々な用例や諺に使われ、日本人の日常生活に昔から密着し、普及してきた。

「因縁」の因は、結果を招く直接の原因で、この因を助けて結果を生じさせる間接的要因が「縁」である。
例としてあげてみると、草花のタネ「因」に対する日光や水が「縁」である。そして美しい花「結果」が咲くわけである。
「因あれば果あり、果あれば因なかるべからず。」この世のすべてはこの因果の法則によって生滅変化する。このことを仏教では「因果応報」というのである。

「縁起」は仏教の基本的教えのひとつである『十二縁起』もとである。
『十二縁起』とは私たちの現実のあり方、例えば老と死について考察し、それは生によってあることを知るというようなことである。これを順次たどっていくと十二の部分(支)に分けられるところからついた名前である。

無明→行→識→名色→六入→觸→受→愛→取→有→生→老死
が十二支で、無明・行は過去において起こった現在生存の因、識から受までは果としての現在の生のことで、母胎に託して意識生活をなす第一歩の識から身心の和合する名色、感覚機関の六入を経て出生して快苦を感受する。そして愛・取・有は未来の生・老死を生ずる因となって、ついには生・老死の結果となるわけである。そしてまた無明から始まる、これを「輪廻転生」と言う。

釈尊はこのことを理解できたらしい。私にはいまいち理解できない。修行不足か?理解できない人のために教典があり、「念仏」だけで往生できるという教えがあるのだと思う。今回は少し難しくなったが、いずれにせよ人間の思い通りに結果を出せないところに「縁」の不思議さがあると私は思う。

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2000/08  ガキ

いたずら盛りの子どもを罵っていう場合に使う。
現在では子どもではないときにも使われている。

『ガキ』とは「餓鬼」のことで、生前の罪のむくいで餓鬼道に落ちた亡者のことである。ここに落ちたものは常に飢えと乾きに苦しむことになる。
しきりに水や食べ物をほしがるが、腹ばかりが膨れあがり、のどは針のように細く、物を飲み食いしようとするたびに濃い血膿や炎とかしてのどに通らない。痩せ細り、骨と皮ばかりになった姿として絵に描かれる。

「餓鬼」には「無財餓鬼」と「有財餓鬼」がある。
「無財餓鬼」は常に物を欲しがり、「有財餓鬼」は有り余るほど物に恵まれているにもかかわらずケチで、さらに物を欲しがる。そのためにかえって苦しむというものである。
聞き分けがなく、際限なく物を欲しがる子どもを『ガキ』と呼ぶのは「無財餓鬼」の性格から来たものである。

お寺で行われる法要の一つに「施餓鬼会」がある。
これは、飢えに苦しむ生類や弔う者もいない死者の霊、又は餓鬼道に落ちているかもしれない自分の先祖に飲食物を施し、供養するためのものである。
お寺によっては「盂蘭盆施餓鬼会」としてお盆行事の一つとして行ったり、春秋の彼岸に行っているところもある。
「施餓鬼会」にはお寺へ参詣し、一切の精霊を供養し、自分も餓鬼道へ落ちないようにしたいものである。

施餓鬼会についてはそのうち詳しく説明する予定です。

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2000/09  ばか

普通は「馬鹿」と書くが、漢文ではこれを「ばろく」と読む。であるからして「馬鹿」は仏教語ではない。
『ばか』とは、知能の働きが鈍く利口ではないことだが、つまらない、取るに足らぬ等の形容詞や副詞としても使われる。

『ばか』の語源には、
・中国の昔の皇帝が馬と鹿を見誤った話。
・奈良に来た帰化人が馬を放牧したところ、馬は馬酔木(アシビ)を食べて死んでしまったのに、今度は鹿を飼いだしたことを嘲笑した話。
・家産を食いつぶすほどの愚か者、つまり「破家」という意味から来たという話。
と様々な説があり一定しない。

仏教では梵語のハモーの当て字「莫訶」に無知とか迷妄とかいう意味があり、僧が愚か者を隠語でいったのが一般化し、「馬鹿」の字を当てたといわれている。
又一説には「バカに大きい」とか「バカ騒ぎ」などに使われる『ばか』は、大きな・勝れた・偉大なという意味を持つ梵語マハーの当て字「摩訶」の音写ではないかともいわれている。

語源が何であれ、『ばか』といわれて過ごす人生は送りたくないものである。
あなたは大丈夫ですか?

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2000/10  こじき

漢字で書くと「乞食」でコツジキと読むのが正しい。

現在では食べ物を恵んでもらったり、拾って歩いたりする物乞いや物もらい風情を指すようになった。

元来、「乞食」とは仏の定めた制度である『行乞』という仏道修行の一つであり、現在では托鉢と呼ばれている。また、「行乞」を行う僧を「乞士」という。
昔の仏教教団においては、出家をしたら自らの手で食物を作ったり、田畑を耕作したりすることを禁じられていた。食は人に乞うのが課せられて行であり、掟であり信条でもあった。
一般の人に布施という善根をつませる行為が「乞食」であって、恥じる行ではなく、むしろ大衆救済の法であると考えられていた。

日本では単なる物乞い行為の先勝となってしまっているが、インド・タイ・ビルマ等の仏教諸国では僧侶に供物を捧げるのが当然で、僧侶の方も布施を受けるのに礼を言わない。

今日街角で托鉢を行っている僧を見かけることがある。これは現在では『行乞』ではなく、「托鉢」となっているので間違わないで頂きたい。
「托鉢」を見かけたら、インド・タイ・等の仏教諸国を見習って布施行に励みたいものである。

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2000/11  ごちそう

御馳走と書く。特に豪勢な料理や、そういった料理でもてなすことをいう。元来はもてなしの準備のことを指す言葉であった。

漢字で書いてあるのを見てもわかるように、走り回って人をもてなす材料を集めるという意味であった。

誰でもよく知っている韋駄天は、仏陀に使えて方々を走り回り食料を集める薬だったらしく、そこから「馳走」という言葉が生まれたとされている。

禅宗の寺院では、台所に韋駄天を祀っているがこれはそのような理由からである。普通は不動明王を祀っているところが多い。

ということは、人に「ごちそうするわ」と言えばお店へ連れて行くのではなく、たとえおにぎり1個でも、米等の材料を買いに走り、にぎってもてなすの方がよほどの「ごちそう」というわけである。
が、今の世の中、そんなことをすればたちまちみんなに嫌われること間違いないだろう。

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2000/12  だらしがない

「らっしがない」という言葉に卑しめる意味を持った「駄」をつけて「駄らっしがない」、転じて「だらしがない」となった。

釈尊教団では身分の上下関係がないため、先輩・後輩の差によって秩序を保っていた。インドでは何ヶ月も雨が降って布教の旅ができない雨期に修行僧が1カ所に集まって修行する安居(あんご)がある。

この安居のことを年臈(ねんろう)・法臈(ほうろう)といい、その臈を出家・受戒してから何回重ねたかによって座席の順位が決まった。その順位を表す言葉を臈次(らっし)といい、順序がたたず、無秩序・乱雑なことを「臈次がない」と言った。

ちなみに「ふしだら」もこの「だらしがない」が転じたものであると言われている。

「だらしがない」「ふしだら」とはあまり言われたくないものであるが、本人がそうでないと思っていても言われてしまう。
何ともイヤな言葉である。

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2001/01  一蓮托生(いちれんたくしょう)

運命を共にするという意味で用いられる。お互いの覚悟を促したり、脅したりする場合によく用いられている。

蓮は仏教では一番尊い聖花である。そのため、仏像の台座はほとんどがこの蓮の花をかたどったものである。 極楽浄土には、この蓮が多くあり、浄土系の理想はこの蓮の上に往生することとなっている。

そのため、仲のいい信仰仲間・夫婦・友人等が来世も一緒に暮らしたいという願いを「同じ蓮の上に生まれよう」と表現した。その願いが「一蓮托生」というわけです。

美しい心で結び会った人々や、悲恋の男女の来世に託する願いである「一蓮托生」が、現在ではいつの間にやら拡大解釈されてしまいました。そのため、テレビ等でも悪者が窮地に追い込まれたら「こうなったら一蓮托生だ!!」とよく言っていますが、悪者一味が全員極楽浄土の蓮の上に生まれ変わるはずがなく、もし生まれ変わるとしてもその様子を想像したら・・・・(笑)
吹き出してしまいますね。

「一蓮托生」になってもいい相手、あなたはいますか?

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2001/02  以心伝心(いしんでんしん)

現在は黙っていても心と心が通じ合うという意味で使われる。

本当の悟りは文字や言葉などによって伝えるのではなく、心から心へ直に伝えられるものであるという、仏教用語的にも大変奥の深い言葉である。
禅宗では、特にこの方法を使う立場をとっている。

『以心伝心』という言葉には、由来となる物語がある。
その物語とは、

釈尊(しゃくそん)が霊鷲山(りょうじゅせん)におられたとき、大梵天王(だいぼんておう)が金波羅華(こんぱらげ)という黄色い華を一輪ささげて説法をお願いしました。
釈尊は説法台に上ってお座りになると、黙ってその華を聴衆(ちょうしゅう)の方へ向けて差し出されました。
一同は何か言い出されると思い、シンと静まりかえりましたが何もおっしゃいませんでした。
釈尊は聴衆の中にいる十大弟子の一人、摩訶迦葉(まかかしょう)に視線を向けられました。
すると摩訶迦葉はニッコリと微笑みました。すると釈尊はおもむろに口を開かれ、
「私には一切の真実を照破(しょうは)する智慧の蔵がある。この世界の奥にある大調和(だいちょうわ)の姿を見る、この上ない安らかな心である。
それは宇宙の実相(じっそう)を明らかにする智慧ではあるが、定まった相(すがた)のあるものではない。
まことに微妙(みみょう)な智慧であり、文字に書き表すこともできず、言葉で表現することもできない。
故に私の説く教説とは別に、心から心へ伝えられるべきものである。
この微妙の法を摩訶迦葉よ、そなたは理解した。」
とおおせられました。

この物語は、「拈華微笑(ねんげみしょう)」という言葉で表現されており、この話から摩訶迦葉は禅宗の祖とされている。

黙っていても心と心が通じ合う。これはすばらしいことだが、容易ではない。
お互いに相手を信頼し、自分の心を開くことによって通じ合うものではなかろうか?

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2001/03  仏の顔も三度

正式には「仏の顔も三度逆撫(な)ですれば腹を立てる」という。

どんな温厚・寛容な人でも、顔を逆撫でされるような仕打ちを三度もされれば、我慢できなくなり、怒り出すという意味で用いられています。

この言葉には、由来となる故事があり、その話からすると意味が少し違います。
その故事の物語とは、

昔、釈尊晩年の頃、コーサラ国のパセーナディ王は釈尊の教えに帰依していたと同時に、その崇高な人格に深く傾倒していました。
そのため、 王は釈迦族から妃を迎えたいと願い、釈迦族のカピラバスト国に使者を使わしました。
ところが、その使者の口上に「もし不承知なら力づくでも〜」という言葉が少し混じっていたので、
誇り高き釈迦族の人々は大いに憤慨しました。
しかし、強大であるコーサラ国を怒らせることはできないので、一策を案じ、ある富豪が召使いに産ませた美女を、その富豪の嫡子として送りました。
(インドはカースト制度のため、召使いの子は召使いであった。)
王は喜んでその女を第一夫人とし、婦人はまもなく玉のような王子ビドゥーダバを産みました。
王子八歳の時、王は弓術を学ばせるために、王子をカピラバスト国へ送りました。、
その留学中、ビドゥーダバ王子が新しくできた講堂に上って修行したのを見た釈迦族の人々は、身分の卑しい女が産んだ子が出入りした場所は汚らわしいとして、王子の帰国後、彼が踏んだ足跡を削り、床下の土を二メートルも掘って入れ替えました。
そのことを伝え聞いた王子は激怒し、付き人に「私が王位を継いだら一日に一度、必ず私に『釈迦族に辱められたことを思い出せ』と言い聞かせよ」と命じました。
父王が死に、王子がその跡を継いでから、付き人は命令を実行し、復讐心をあおり立てました。
ビドゥーダバ王は軍を率いて進撃しました。この知らせを聞いた釈尊は、しばらく瞑想しておられましたが、やがて立ち上がられると、カピラバスト国へ通ずる街道の一本のチークの枯れ木の下に端座されました。
通りかかった王は釈尊のお姿を見るとうやうやしく礼拝してから
「他に青々とした木がございますのに、何故枯れ木の下に座っておいでですか?」と尋ねました。
釈尊は、「王よ、親族の陰は涼しいものだ。」とおおせられました。
(チークという木は釈迦族の発祥に重要な役割を果たした木で、一族のシンボルのようなものであったと伝えられています。)
その言葉を聞いた王は、釈尊が釈迦族の出身であることを思い出し、
又『征旅において沙門にあわば兵を返せ』という昔からの言い伝えに従い、城へ引き返しました。
しかし、ほどなく王はまた兵をだしました。が、又釈尊が枯れ木の下に座っておいででした。
それを見た王は又引き返しました。そして三度目も同じことでした。
四度目、そこには釈尊の姿は見えませんでしたので、王はカピラバスト国へ攻め入り、釈迦族は滅びました。

『仏の顔も三度』とはこの物語からでた言葉です。

ビドゥーダバ王がカピラバスト国に初め攻め入ろうとしたとき、十大弟子の一人目蓮尊者(もくれんそんじゃ)が、その神通力のよってカピラバスト国を救おうと申し出られましたが、
釈尊は、「釈迦族の積んだ業の報いを誰が変わりに受けることができようか。」とおおせられ、
お断りになったのです。
ですが、故郷と親族を見捨てることはできず、三度までは滅亡から救おうと努力されたのです。
しかし、人間としての情はそこまででなげうたれ、後は因果応報(いんがおうほう)の理に従われたのです。
この話は無私の人である釈尊の人間らしい一面をも忍ばせる、美しい話として伝えられています。

余談ではありますが、コーサラ国の王、ビドゥーダバは帰国後に船遊びに興じているとき、
にわかに嵐が吹き起こって、兵士共々水没したと伝えられています。
『因果は巡る』とはこのことでしょう。

復讐してやりたいようなことをされても、広い心でそれを受け止める。
受け止めず復讐をなせば、そのことが又いつしか自分に返ってくる。
「因果応報」という大切なことをも、この物語は伝えているのではないか、私はそう思います。

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2001/04  嘘(うそ)も方便(ほうべん)

「方便」とは梵語ウパーヤの漢訳で、仏のさとりに近づき、到達するための”正しい手段”を指した言葉です。
つまり、釈尊の教えはそのままでは難しく、一般の人にはそのままでは理解してもらえないし、魅力も覚えないので、たとえ話をしたり、救われた実話を話したりしてたくみに仏法へ導くことを「方便」と言いました。
このことは仏法を広めるための非常に大切な手段ということで、『法華経(ほけきょう)』の「方便品(ほうべんぼん)」という一章さえ設けられています。

釈尊のされた話に次のようなものがあります。

誤って毒薬を飲んだ子供たちを救うために、名医である父が良薬を与えたが、その薬を嫌がって飲もうとしない子供たちもいた。
そこで、父は旅に出て、旅先で死んだという知らせを届けさせた。
それを聞いて心細くなった子供たちは、父の残しておいた薬を飲む気になり、ようやく助かった。

釈尊はこの話をなさって、弟子たちに
「この名医が、自分が死んだと知らせた嘘は罪になるだろうか?」
と尋ねられた。弟子たちは
「そうではございません、けっして・・・」
と答えました。

この話からもわかるように、相手にプラスになるような嘘を『嘘も方便』と言うのであって、利己のためにつく嘘はそう言わないのです。

ちなみに、この話にでてくる子供とは私たち衆生を指し、名医である父は仏を指しています。

エイプリルフールにつく嘘は遊びの嘘であり、その日のうちに嘘であることを相手に教えなければならないと聞いた。この話は嘘ではなく、本当ですよ(笑)。

『嘘も方便』正しい使い方をしたいものである。

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2001/05  ガタピシ

普段は襖(ふすま)や障子(しょうじ)の立て付けが悪く、開け閉めに不自由する状態のことを言います。
擬声語のように思われる言葉ですが、ちゃんとした意味があります。

漢字で書くと「我他彼此」と書きます。
『ガタピシ』という言葉は仏法の根本義に即して、人間関係の不調和を戒めた言葉です。
意味はというと
「我れは我れ」、「他人は他人」、「彼(あ)れは彼(あ)れ」、「此(こ)れは此(こ)れ」
と、すべてを区別して考えるところに、人間や物事の関係がうまくいかない原因があるということです。

『無量義経(むりょうぎきょう)』という教典に
「諸(もろもろ)の衆生(しゅじょう)、虚妄(きょもう)に是は此(し)、是は彼(ひ)、是は得(とく)、是は失(しつ)と横計(おうけい)して〜」
とあります。
つまり、
「(この世界の本体は平等な空(くう)であるのに)たいていの人がこの真理を知らず、目の前の現象だけを見て、此れは此れ、彼れは彼れと差別して考え、此れは得だ、此れは損だと勝手な計算をして〜」
と説かれているのです。

自分がよければよいという考えに対して、それではいけないと戒めているのです。
襖や障子の立て付けを直してもらう時、建具屋さんは襖や障子の方を削ったり、木片を添えたりしますが、鴨居(かもい)や敷居(しきい)などに手を加えることはほとんどしないそうです。

自分(襖や障子)を出しすぎず、他人(鴨居や敷居)を尊重する。
ひとり気ままな行動に出れば、いろいろな面でゆがみが生じるのです。
スムーズさが欠ければぎこちなさが出る。
これは人間関係も襖や障子も同じことです。

自分を出しすぎず、他人を尊重する。
むつかしいことだけれども、大事なことですね。

我(が)を捨てましょう!!

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2001/06  おおげさ

漢字で書くと「大袈裟」となる。
文字通り、僧侶が大きな袈裟を仰々しくかけている様子を表現した言葉である。
物事を実際以上に大きく誇張して表現するこという。

この言葉は僧侶の服装が華美になってからでてきた言葉で、
昔の袈裟は今のようなものではなかった。
では、袈裟とはどういったものであったのだろうか?

「袈裟」は梵語である「カーシャ」の音写であり、「糞掃衣(ふんぞうえ)」と訳されている。
「カーシャ」とは、「汚濁(おだく)」という意味があって、
釈尊教団の僧侶はゴミ捨て場等から汚い布、それも死人を包んだものやネズミにかじられたものなどを拾ってきて、
それを洗濯し、継ぎ合わせて使用する定めとなっていました。

そのために、色は斑(まだら)模様となり、布地も弱いため雑巾のように縦横に刺し縫いして着用していました。
その名残が現在使われている袈裟の形です。現在も縫い合わせだけが残っているのです。

現在でも黄色系や黄土色系、つまり褐色の袈裟や衣を使用しているところもあります。
スリランカやタイの僧侶は少年から長老まで全部同じ褐色の衣を着ています。
このあたりはテレビなどでごらんになった方もあるでしょう。

日本の袈裟がいつ頃から華美になったのかわからないが、衣装比べと言われるぐらい華美である。
これは本来の意味からは外れてはいるが、仏教界の変質に準じたものであろうと思われる。

しかし、かけている本人が言うのも何だが、ホントに今の袈裟は『おおげさ』である・・・。

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2001/07  えこひいき

一部の人を特別扱いするという意味で使われている。

「えこ」とは漢字で書くと、『依怙』と書き、その意味は頼りにして依りかかること
またその相手のことをいう、といった意味を持つれっきとした仏教語です。

「法華経」の普門品(ふもんぼん)という部分に

「観世音浄聖(かんぜおんじょうせい)は苦悩死厄(くのうしやく)において能(よ)く為に依怙と作れり」
とあります。
つまり「観音菩薩は苦しみ悩んでいる時、死に至る災厄などに襲われた時、その名を唱え念ずれば、必ず救いの手をさしのべてくださる、あるいは安らかに死へ導いてくださる。まことに頼りになるお方である。」
と説かれているのです。

このように、心底から頼られ、慕われ、依りかかってこられれば観音菩薩でなくともその物に目をかけ、何かと面倒を見るのが人情でしょう。
観音菩薩の慈悲はいうまでもなく平等です。
しかし、我々凡夫は特に自分に依りかかってくる者には、特別にかわいがってしまうようになり、つい片手落ちのひいきをしてしまいます。
そのためにそうした不公平な処置を「えこひいき」と呼ぶようになりました。

凡夫であろうとも、できるだけ公平な処置をとるようにする。
そうすることによって、少しは観音菩薩に近づけるようになる、そんな気がしませんか?

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2001/08  主人公

現在では劇や小説の中心人物などを指します。
仏教での意味は真の意味の自主性を持った人間をいいます。
つまり、外部の事物に心惑わされることがなく、また煩悩にも振り回されず、真実の自己(宇宙意識と通じ合う*1大我)によってものごとを成し得る人間のことをいう。

『主人公』という言葉はもともと禅の言葉で、どこに出てくるかといいますと、『無門関(むもんかん)』と言う禅宗の公案を記した書物の第十二則、瑞厳(ずいがん)和尚の話に出てきます。
どんな話かといいますと

瑞厳和尚は毎日自分のことを
「主人公よ」と呼びかけ
「おう」と返事をします。
そして、
「主人公よ、はっきりと目を覚ましておれ」と言い
「ようし、承知した」と自答します。
また、
「他にたぶらかされてはならないぞ」と言い
「ようし、わかった」と返事をした。

という話です。

『主人公』の「公」というのは尊んでつける語です。本来の自分は仏性であるから仏の本質で同じである、と仏教では教えているので自分に尊称をつけて呼ぶのは当然ということです。
また、「他にたぶらかされる」という「他」は、他の人間や物事ばかりでなく、本来の自分以外の己の欲望とか迷妄なども指しているのです。
いい話ではありませんか。

現在ではアイデンティティー(自分が自分であることの確信)という言葉が使われていますが、これはアメリカの自我心理学者E・H・エリクソンが唱えてる概念で、「自分」というのは心のほんの表面にある「自我」のことらしいです。
それに対して仏教でいう「本来の自己」とは、宇宙の根源の大生命と一体であるという、深くかつ広々としたものなのです。
釈尊は『法華経』の譬喩品(へきゆぼん)第三で「今此の世界は、みなこれ我が有なり。その中の衆生はことごとく吾が子なり」とおおせられています。
つまり、釈尊こそまさしく宇宙の『主人公』であられたわけです。

われわれは日々精進努力し、『主人公』を目指すべきなのでしょうが・・・難しいですね。


*1大我:正しくは「だいが」と読む。仏法では人間は自分の心身を「我れ」と認めているけれども、それは因と縁が合して造り上げた仮の現れであって、宇宙の万物万象(これらも仮の現れ)はお互いに関係しあい、支え合って存在しているのだから、独立した「我れ」などは本来ないとしています。
それなのに、凡夫は独立した「我れ」があると錯覚しているから、他と対立し、奪いあい、恐れあい、妬みあっているわけです。この「錯覚にもとづく我れ」を『小我』といいます。
それに対して、仏が到達された悟りの世界は、宇宙の根源のいのちの世界であり、すべての存在が大調和し、自と他が溶けあって一体となった自由自在の世界なのです。これを涅槃といい、真我といい、大我というわけです。
凡夫も実際はこの大我の中に在るのですけれども、迷妄や錯覚に妨げられてそれを悟らぬだけだ、と仏教では説いているわけです。

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2001/09  醍醐味(だいごみ)

今の若い人たちはほとんど使わない言葉であろう。
「これが相撲の醍醐味だ」などと、抽象的な意味によく用いられる。「物事の本当の良さ」というのが現在使われている意味である。

醍醐とは、仏典にでてくる五味のうちの一つのことで、
五味とは、『乳(にゅう)・酪(らく)・生蘇(しょうそ)・熟酥(じゅくそ)・醍醐(だいご)』のことである。
これは乳を加工していったときの、発酵の課程を漢字で表したものであり、『醍醐』が一番最上とされています。

経典である「涅槃経」には「諸薬中醍醐第一」という言葉がでてきますので、おそらくは普通の乳製品ではなく、薬効があったのではと推測されています。

『醍醐』という食べ物を書いて表すと、発酵乳のような風味と、やや酸味のある甘さ、そして舌触りは月餅(げっぺい)のクルミ飴のようにザラザラしているものだそうです。

『醍醐』は最高の美味であり、最高の霊薬であったことに譬えて、涅槃、仏性、真実法などの意味に使われます。
神秘の国、インドで最高の美味とされていた『醍醐』。一体どんなものなのでしょうか?
もしインドに行かれる方があれば、味わってきていただきたいものです。
今でも修行中の方が食べておられるらしいですから・・・

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2001/10  迷惑

困るような行為を他からうけたとき、どうしようかと迷い惑うことから『迷惑』といわれるようになったと言われている。

他人を困らせる行為、及びそういった行為を受けて困ることに現在では用いられているが、本来の出所はというと
『無量義教』の「説法品(せっぽうぼん)」というところに
「我等、仏の所説において復(また)疑難(ぎなん)なけれども、而(しか)も諸(もろもろ)の衆生、迷惑の心を生ぜんがゆえに、重ねて世尊に諮(と)いてたてまつる」
とあります。
つまり、「わけがわからずに思い迷う」「道理に迷って心がウロウロする」という意味の言葉なのです。

自分自身が困り惑う有り様を指す言葉であったのが、いつしか他人への加害を意味し、しかも被害者のうける言葉となっていったのです。
『迷惑』。かけるのもいやですし、かけられるのも嫌ですね。
そうならないよう出来るだけ注意して、暮らしていきたいものですがなかなかどうして・・・。

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2001/11  微塵(みじん)

「そんなつもりは微塵もなかった」などとよく使われる言葉です。
『毫も』や『毛頭』などと同じような意味で使われます。
自分ではあまり使いませんが、証人喚問の時によく聞いたような・・・(笑)

『豪』は細い毛のこと、『毛頭』は毛の先のことで、「ほんの少し」という意味です。
では、『微塵』はと言うと、非常に微細な物質のことを指し、科学的に言うと「分子」に当たります。

経典では『法華経(ほけきょう)』の寿量品(じゅりょうぼん)と言うところに

「三千大千世界をたとい人あって抹して微塵と為し〜」という具合に使われています。 どういう事かというと、釈尊が弟子達との問答で次のように会話された内容です。

釈尊が「ある人がこの銀河宇宙の天体をすべてすりつぶして分子とし、それを持って宇宙へ飛び出し、無数の天体を通り過ぎるごとに一分子を置くという具合にして、その分子が無くなったとしたら、通り過ぎた天体は一体いくつあると思うか?」
と質問されました。
もちろん弟子達は答えることが出来ません
すると釈尊は「私が仏となってからは、その数よりもずっと多い年月が経っているのだ」
とおおせられました。

つまり、宇宙の大生命である仏は宇宙空間・時間さえ超えて悠遠(ゆうえん)であると言うことなのです。
望遠鏡すらなかった時代に広大な宇宙の広がりを直観、もしくは神通力で見通されていた釈尊。
一体何処まで偉い人だったのでしょうか?

宇宙的に見れば『微塵』的存在な私たち。
でも、それぞれにはきちんと存在理由があり、精一杯生きています。
一寸の虫にも五分の魂、よい諺ですよね。
これを忘れずに生きていきたいものです。

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2001/12  功徳(くどく)

信仰や善行の結果として神仏から下される果報の意味によく使われる。
もとは梵語である「グナ」の訳で『功能福徳』の略である。
が、本来は自分の行いが自分に与える果報を指したものである。中国の高僧である慧遠(えおん)和尚が著書である『維摩経義記(ゆいまきょうぎき)』に次のように解説している。

「功徳は、また福徳ともいい、福とは福利のことである。善い行いはその行いをした人自身の全人格に沁(し)みわたって、それを向上させ、結局はその人のためになるが故に、福というのである。また福というものは、それ自体が善い行いをなす人の徳にほかならないから、合わせて福徳というのである。例えば、清く冷たいということが水のもっている功徳であり、同時に福であるようなものである。
功というのは、功能のことである。善い行いは、他を助け、潤(うるお)し、利益を与える働きがある。故に功と名づける。しかも、善い行いは他を利益するばかりでなく、自分の身にも返ってきて、自分の徳ともなるものだから、合わせて功徳と名づける。」

とこのように、説明されています。

福を求めて善い行いをするのではなく、また、自分の徳になるからといって、他を助けるわけでもない。
ボランティアをしてきたから自分は偉いのだ、と自分でいう人は偉くはないし、徳もないし、福もないであろう。
人知れず人のために尽くす。
そういう人にこそいつかは善いことがあり、福が訪れ、人に尊敬される人になる。
見返りを求めない行動。言うは易し、行うは難しである・・・。

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2002/01  行住坐臥(ぎょうじゅうざが)

四つの状態のことを指す言葉である。すなわち、行=動いている、住=止まっている、坐=すわっている、臥=横になっている、のことであり、これら四つの状態を仏教では四威儀(しいぎ)といい、仏教の修行者はこれらの状態をきちんと品良くすることを要求されました。
つまり、仏教の教えは理論ではなく、生活の教えであることを説いているわけです。

行住坐臥についてはこんな話があります。

釈尊の弟子の一人である舎利弗(しゃりほつ)は、若い頃王舎城(おうしゃじょう)付近に住む宗教者の師範代をしていましたが、師の教えに今ひとつ満ち足りないものを感じていました。
ある日、町を歩いていると、一人の僧が托鉢をしながらやってくるのに出会いました。
その僧は衣は粗末でしたが、目は澄み、顔は輝くようであり、身のこなしは端正で、歩く姿もいかにも気品がありました。
舎利弗は一目見てただ者ではないと思い、僧の托鉢の終わるのを待って声をかけました。
「尊者よ、あなたはどういう人のもとで修行されたのですか?」
「私の師は釈迦牟尼と呼ばれる正覚者です。」
「その師の教えはどのようなものでしょうか?」
「私は弟子になり日も浅いので詳しいことはわかりませんが師は、『すべてのものは因と縁が結びあって生ずる仮の現れであって、その因と縁が滅すればそのものごとも消滅するのである』とお説きになります。」
舎利弗は飛び上がって喜び、これが自分の探していた教えだと、親友の目蓮(もくれん)と共に入門しました。
この二人の弟子は釈尊教団でも後にもっとも厚く信頼された高弟で、その二人の入門のきっかけが一人の僧の威儀であったことを思えば、指導的立場にいる人の行住坐臥がいかに大事であるかわかります。

現在では行住坐臥は「いつも」と副詞的な意味に用いられます。
確かに意味的には合致しますが、根底の意味は違います。
四威儀・・。日常からすべてをきちんと品良くするのは難しいです。威儀をきちんとしてこそ、心が静かになりいつも平静でいられるのかもしれません。その逆もしかりです。
生活に結びつく一番わかりやすい教え、それが行住坐臥です。

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2002/02 金輪際(こんりんざい)

一般的に「これで最後とか」「どんなことがあっても」という意味合いで使われる言葉である。
この言葉は元々、仏教の宇宙論から出てきた言葉なのである。

仏教の宇宙論とはどういうものか、少し説明する 
この宇宙は「虚空」つまり何もないタダ広いだけの空間があり、その中に「風輪」という円筒状の層が浮かんでいるという。その層の厚さは百六十由旬(ゆじゅん)あるという。由旬とは距離の単位であり、一由旬は七キロメートルといわれたり、百六十キロメートルといわれたりする。
その風輪の上に、水輪がある。この層の厚さは八十万由旬である。
そして、水輪の上に金輪がある。金輪の層の厚さは三十二万由旬で、直径は百二十万由旬あり、
この金輪が世界の大地や山々を支えているといわれている。

『金輪際』とは、つまり金輪と水輪の境目のことを指すのである。
金輪の上に住んでいる我々にとって、『金輪際』はもうこれより先はないというギリギリの線なのである。
つまりここから転じて、物事の極限、物事のきわまるところという意味合いで使われるようになったのです。

ちなみに、金輪の上には九つの大山、四つの大陸、海が乗っていて、金輪の中心には須弥山(しゅみせん)という山があります。
四つの大陸はそれぞれ東西南北にあり、その一つが我々の住む大陸であり、インド亜大陸がモデルとなっている。
その大陸の周りはもちろん海なのだが、どうして海の水は金輪から流れてしまわないのだろうか?
それは金輪の周りには鉄囲山(てっちせん)という、環状の山が取り囲んでいるからだといわれている。この山は別名「金剛山(こんごうせん)」ともいわれる。

仏教の世界観・宇宙観は調べてみると非常に面白いものである。とにかくスケールが大きい。古代インド人には頭が下がります・・・。

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2002/03 楊枝(ようじ)

楊子とも書く。ご存じ「つまようじ」のことである。食事の後に使うあれですね。

古くはインドが始まりのもので、元来は「歯木(しもく)」といい、仏道修行者の道具『比丘(びく)十八物』または『仏家七物』の一つである。
元の形は今のつまようじではなく、歯ブラシに近いものであった。
特定の柔らかい木の小枝の先を噛んでサラサラにし、それで歯を洗い、汁で口を洗ったそうである。

主として揚柳で作っていたのでこの名前が使われているが、今はヤナギ、クロモジ、スギ、タケ、モモなどの木で作られているらしい。
現在でもインドの田舎ではこの楊子が使われているらしく、そこではトキワセンダンという木を使っているという。

『四分律(しぶんりつ)』という仏教者の戒めを説いた本には、
「楊子も、賊心から多数を取って売ったりしてはならぬ」
と説かれており、また
「もしくは香の所薫(しょくん)、もしくは薬塗(やくず)」ともかかれており、楊子の中には薬を塗ったものや、香を焚きこめたものもあったようである。

いずれにしても、今は完全に生活の中にとけ込んでいる『楊子』。
ここにも仏教の教えがあるということを覚えておいてもらいたい。

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2002/04 暖簾(のれん)

お店の看板や、その店自体をさしている言葉で、「暖簾を大事にする」「暖簾に傷が付く」「暖簾を分ける」などと使われている。
紺色の木綿地に屋号や家門を染め抜いて店先にかけてあるものです。元来は風よけや埃よけに用いられていました。

お寺でも同じ事で、お寺はガランとしていて開放的で風通しがよい、また、座禅をする時のお堂、座禅堂の出入り口に布をつり下げて風邪を防いだのが始まりです。
漢字を見てもわかるように「暖かい簾(すだれ)」という意味で、本来は「ノウレン」と読みました。
漢音では「ダンレン」ですが、唐宋音では「ノウレン」と読むわけです。
その読み方がつまって「のれん」と発音するようになりました。

ちなみに露店にかかっている縄暖簾、これは手を拭くためのものでなく、蠅が入ってこないようにするためのものです。間違った使い方をしては店に失礼ですよ。

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2002/05 道具

物を作ったり、仕事をはかどらせたりする用具である物ですね。
この言葉、普段何気なく使っていますが、元々は仏道修行のための必需品である用具をこう呼んだのが始まりです。
仏道修行の道具としてもっとも簡素なのが、「三衣(さんね)」、布施を受ける「鉢」、瞑想や寝床に使う「座具」、飲み水をこすための「漉水嚢(ろくすいのう)」の六物、それに「針」と「カミソリ」を加えた八物でした。
「三衣」は托鉢用=大衣・礼拝聴講用=上衣・作業就寝用=中衣の三枚一組の衣のことです。
「漉水嚢」は汚れた水を飲まないようにするためではなく、水の中にいる生き物を殺さないようにするための物でした。
釈尊も私有物はこれらだけしか持っていなかったと言われています。
しかし、「今此の三界は皆是れ我が有なり」=「宇宙全体はわがもの」と法華経でおおせられているように、世界で一番富める人でもありました。
一応忠告しますが、「わがもの」とは自分だけのものという意味ではありませんので。
現在でも仏道修行者は指輪などの装飾的なものはしないことになっています。
東南アジアでは腕時計もしないそうです。時間を気にして動く日本とは偉い違いですね

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2002/06 長老(ちょうろう)

アニメや映画などでは村の一番の年寄り、そして伝統を守る老人というイメージがある言葉である。
しかし、本来は老齢ということは関係なく、徳行が高く経験を積んだ先輩格の修行者のことを『長老』と呼んだのである。
村人に尊敬されているという意味では、アニメや映画の長老という言葉は当てはまるのですがね(^^)

昔、仏が舎衛国【しゃえこく】という国におられた時、徳の浅い修行僧が徳の深い修行僧に対して失礼な呼び方をしたことがありました。
徳の深い修行僧は不快を覚え、また周りのほかの修行僧たちもどうすべきかわからなくなり、釈尊にこの事を話しました。
すると釈尊はこう言われました。
「上座(徳の深い者)の者に対して敬いをもって喚ばないこと、これは不作法であり戒律の中でももっとも軽い罪である突吉羅【ときら】にあたる。だから下座(徳の浅い者)の者は上座の者を『長老』と喚ぶように」と。
そして「しかし、長老と喚ばれる者は数が多く不便である。多くの長老を一度に喚ぶ時は『長老某甲【ちょうろうもこう】と、それぞれを喚ぶ時は名前の上に『長老』とつけなさい。」と。

釈尊教団では出家以前の身分や年齢、そういったものはいっさい関係なく平等であったのですが、「親しき仲にも礼儀あり」ということを尊重されています。
この事は当時の釈尊教団の民主的なあり方を生き生きと描いてある一情景として、現在も語り継がれています。

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2002/07 呂律(ろれつ)

「ろれつ」・・・。主な使い方としては「ろれつが回らない」という使い方。
つまり、舌が上手く使えない、という感じでよく使われますが、何故に「舌」ではなく「ろれつ」なんでしょうか?

「ろれつ」、つまり『呂律』とはもともと声明(しょうみょう)という一種の仏教音楽の音階のことなのです。
釈尊教団では、歌ったり踊ったりすることは禁じられていましたが、お経に節を付けて歌うことだけは許されていたのです。
仏教が中国に伝わった時、お経の節付きも伝わり、中国で根付き「声明」と名付けられ、古来中国にあった律呂(りつりょ)という十二段階の音階に従ってお経の節付きが唱えられました。

それが日本に伝わり、いつしか呂律(りょりつ)とひっくり返していうようになり、訛(なま)って『ろれつ』といい、さらに意味も転じて言葉の調子、うまくしゃべれない状態のことを指すようになったのです。

お葬式や大行事などではこの「声明」を聞くことができます。上手な方はすごく上手で聞き惚れてしまいます。
このようにいう私の「声明」はまだまだ・・・。練習しなくては。

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2002/08 刹那(せつな)

「その刹那!!」と小説などで使われている言葉。時間を表す言葉として使われ、意味としては「瞬間」という感じです。
語源は梵語のクシャナの音写が変化したものです。
では、実際の時間はというと、1秒の75分の1なのです。本当に瞬間ですね。

『須叟(しゅゆ)』という言葉はご存じでしょうか?
この言葉も時間の単位で、刹那の216000倍の時間です。約2880秒、つまり約48分で、言葉的には「しばらく」が妥当ですね。
で、その『須叟(しゅゆ)』を30倍すると1440分となり24時間になります。これを『一昼夜』というわけです。

仏教の時間概念を調べてみると、
『阿毘達磨大毘婆沙論(あびだつまびばしゃろん)』には、時間は連続したものではなく、それぞれが独立したもので成り立っていると説かれている。
その独立したのもが『刹那』といわれていて、一刹那の間に生まれ、かつ滅びがあると考えられていた。刹那生滅、刹那無常という考えはここから生まれている。
生命に対しても同じ考えで、胎内に宿った刹那から始まるとされ、その後絶え間なく刹那に生滅を繰り返していく。すなわち75分の1秒ごとに生まれ、また滅びることの繰り返しで、ずっと連続して生きているのではないという。生滅の連続的な、数限りない繰り返しが生命であると考えられていたのである。

この事を現在の医学に当てはめると、人体は約60兆もの細胞が短い時間に生滅を繰り返していることを突き止めている。

しかし、釈尊は2500年も前にすでにそのことを直観で見通していたのである。教典をひもといていけば、他にも現在知られていないことを知るためのヒントが書かれているかもしれないですね。

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2002/09 三昧(さんまい)

遊蕩三昧、賭博三昧等のように「〜三昧」として使われている言葉である。
元は「さんまい」と読み、語句が上につく場合だけ濁る。
意味的には一つのことにとらわれる、集中すると言った意味である。

元は梵語のサマーディの音写である。意味はやはり心を一つのことに定めて動かさないことなのである。
「定(じょう)」と訳されるが、それではあまり深い意味が尽くされないから、音写のままの『三昧』の方が圧倒的に多く使われる。
どちらかと言えば罵り的な言葉として使われることが多い。

心を一つの事に定めて動かさないと言うすばらしい意味であるのにどうして罵りの言葉として使われるのか?
これは他の仏教語にも言えることで、例えば「仏」である。
「知らぬが仏」や「仏様でもご存じあるまい」などと使っている。これは仏教語に限ったことではない。
「God bless me!」直訳では「神よ、恵みあれ」なのに対し「さあ大変だ」
「Good God!」直訳では「善なる神よ」に対し「けしからん」
「Christ!」直訳は「キリスト様」なのに「こん畜生」
と西洋でも言うのである。

切羽詰まった時、神や仏に対しての祈りの言葉であったのが転じてこのような冒涜気味な言葉になったのではないかとされている。

どちらにしろ仏教徒的使い方としては「念仏三昧」!!
これだけで良いのでは?(笑)

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2002/10 天眼鏡(てんがんきょう)

今の若い人は使わない言葉かも知れない。いわゆる「虫眼鏡」のことである。
辞書を引くと「柄のついた大きな凸レンズ、拡大鏡」とある。では、なぜに『天眼』なのか?

『天眼』とは「五眼」のうちの一つのことで天人の眼のことである。
残りの四つはと言うと、人間の持つ「肉眼」、阿羅漢(あらかん)のもつ智慧の「慧眼」、菩薩が人びとを救うために一切の法門を観る「法眼」、そして天眼を含む四つすべてを兼ね備えたホトケの「仏眼」をいうのである。

『天眼』は天中の浄色を体として、万物の巨細遠近を見極め、また、人びとの未来の運命生死の相を知ることができる。故に易者が持つ虫眼鏡を『天眼鏡』というのである。

そして、この『天眼』によってすべての物を見抜く不思議な力を『天眼通』といい、「肉眼」しか持たない我々人間は『天眼鏡』を持つことによって天眼通と同じように見れると言うのだが・・・、そんな眼鏡などはない。

たとえ「肉眼」であってもいいではないか。心の目が開いていれば・・・。
心の目を開こう!!

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2002/11 魔

『魔』、悪魔として一般的に言われています。
語源は梵語の「マーラ」の音写です。

マーラとは人の善事を妨げる邪鬼や、人の心を悩ます悪霊のことです。ただし、釈尊が説かれた『魔』とは人間の顕在意識(表面の心)にはたらく迷妄・執着や、潜在意識(隠れた心)にうごめく無明【むみょう】・宿業【しゅくごう】、つまり宇宙と生命の実相を知らない無知・過去世に作った行為の因縁であったと言われています。

男の男根を「マラ」と呼びますが、これは僧侶の隠語として使われていたもので、漢字では「魔羅」と書きます。仏道修行の妨げとなる『魔』であることから名付けられたようで、それがいつしか一般用語になったようです。

それに関した話として次のような話があります。

妻子を捨てて出家した一沙門がいました。ものすごく信心堅固であったけれども、妻のことを思い出しては「陰すなわち動起」するので、心に慚愧を抱くことがありました。
そんなことがあったので、ついに刀を持って断ち切り、出血多量で悶絶【もんぜつ】しました。
釈尊は多くの弟子たちに
「彼は愚かにも断ち切るものを誤った。形ある物を切るのではなく、心の煩悩をこそ断つべきであった。」と教えられたのでした。

人はすぐに形ある物を切ろうとしてしまいます。この話を参考に『魔』に負けない実生活をしたいものです。

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2002/12 増長(ぞうちょう)

一般では「図に乗る」、「おごり高ぶる」といった意味で使われています。

この言葉を使う仏がいます。四天王の一人である増長天(ぞうじょうてん)です。
「増」とは横に広がること、「長」は縦に伸びることを意味していて、『増長』は物事が増大し、盛んになり、広がり栄えることを意味しているのです。
増長天は「自他の威徳を増長する働きを持つ仏」として崇められ祀られています。

これとは別に仏教では「増上慢」という言葉があります。
この言葉の意味は、「最上の法を会得していないのにあたかも会得したかのように思い上がること」なのですが、発音が増上天と同じと言うことでいつしか『増長』と「増上」が混同され、意味も混ざってしまいました。

東京の芝にある増上寺は、「増上慢」からその名前を取っているのです。ご存じでしたか?
日本全国にあるお寺は大概教典の言葉からその名前をつけているのですよ。
お気づきの方いました?

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2002/01  ふだん

「ふだん着」「ふだんからよく勉強する」といった使われ方をよくしますが、この『ふだん』の字は?
現在では「普段」と使いますが、本来は「不断」が正しいようです。
『不断』とは、常日頃、絶え間がない、いつもという意味です。そういう意味からも『不断』が正しいのです。

毎日読むお経を「不断経」、昼夜間断なく念仏することを「不断念仏」といい、ちゃんと仏教語なのです。有名な平家物語(大原御幸)にもこの言葉が出てきます。
「甍(いらか)破れては霧不断の香を焚き、扉(とぼそ)落ちては月常住の灯(ともしび)をかかぐ」
とあるのがそれです。
実はここでは『不断』以外にも仏教語があります。「常住」がそうです。ちなみに意味は生滅することなく、変化することもなく、常に存在する。ということです。仏教ではそのような物質や現象は一つもないと説いています。

『不断』といえば、人の心では「優柔不断」がよく聞かれます。たまには良いかも知れませんが、ここぞという時にはそうならないように、それこそ『不断』から訓練しておかないといけないのでは?
そう思いません?

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2003/02  涅槃(ねはん)

『涅槃』、一般的に人の死、もしくは釈尊の入滅を意味している。しかし、本来「死」という意味ではない。
『涅槃』とは梵語ニルヴァーナの当て字で、意味は火などが吹き消された事、煩悩の火の沈静。つまりは究極的な解脱、さとりの世界をいうのである。

「往生する」という言葉も同じで、これも死んでゆくという意味に使われるが、決してそうではない。
死んでいくと言うのに字は「往生」つまりは「往って生まれる」とはおかしな事です。
これは「浄土へ往って仏につまり永遠の命に生まれると言う事であるのです。

『涅槃』という言葉をよく聞くのは「涅槃図」であり、次に「涅槃会」である。
「涅槃図」は釈尊入滅時の画像であり、「涅槃会」は釈尊の追悼法要のことである。
「涅槃図」はその時代により書き表されている動物の種類が違うなどとも言われ、非常に面白い画像である。
毎年「涅槃会」の時に所有しているお寺は「涅槃図」を掛けている所があるので、もし機会があれば尋ね歩くのも面白いかも知れない。

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2003/03  渡りに舟

困っている時に都合の良い条件が現れること、という意味を持つ言葉。
本当に困っている時、これはとてもありがたいことですよね。

この言葉は「法華経薬王品(やくおうぼん)」というお経があり、
このお経が一切衆生を苦から離れせしめ、その願いを叶えさせるものであることをいろんなことに譬えて説いている中に次のような部分があります。

「この母を得たるが如く、渡りに舟を得たるが如く、病に医(くすし)を得たるが如く・・・」

と、このようにこの教典から起こった言葉なのです。

インドのガンジス・インダス両河の本支流が編み目のように流れており、橋がほとんどないインド北中部ではこの言葉がいきいきした実感をもって迫る。
そのようにこの言葉の資料を参考にした本の著者は述べられています。
『渡りに舟』。今の日本では橋が100%と言っていいほど架かっているので実感できませんが、ほかの物事で実感してください。
今ですと電池のなくなった携帯電話の充電をしてくれる場所とかですかね?(笑)

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2003/04  貧者の一灯

「ひんじゃのいっとう」と読みます。
意味は富める者が有り余る財産の中から悠々と出す布施よりも、貧しい者がなけなしの財産をはたいて心の底からささげるわずかな布施の方が遙かに価値が高い、と言うことです。
このことは『阿闍世王受決経(あじゃせおうじゅけつきょう)』というお経に出てくる次の話に基づくものです。

釈尊を王舎城の宮殿に招待して手厚くもてなした阿闍世王は、それでも物足りない心持ちで、霊鷲山(りょうじゅせん)へお帰りになる道筋に、無数の灯をともしてさしあげました。
一方、王舎城の町の片隅に、その日の食にも事欠く老婆が一人住んでいました。仏に会える機会は百劫に一度しかないと聞いていたその老婆は、その仏様が今夜は王舎城から霊鷲山へお帰りになり、王が万灯の供養をされると知って、せめて一灯だけでも献じて仏世に生まれた幸せを感謝しようと思い、道行く人に物乞いをしてわずかばかりのお金を得ました。
そのお金で油を買おうとしたところ、油屋の主人が言いました。
「どうしてこのお金で食べ物を買わないのかね。油では命はつなげないよ」
老婆は訳を話しました。すると主人は感激して、金額以上の油を売ってくれました。
老婆は喜んで道の一隅に一灯をともしました。
翌朝になって、王の万灯はそれまでにすっかり消えてしまったのに、ただ一灯だけがあかあかと灯っていました。すでに日が昇っていたので弟子である目蓮尊者が神通力でそれを消そうとしましたが、三度試みても消えずにますます明るく燃えさかりました。
釈尊は言われました。
「止めよ。止めよ。これは未来の仏の光明であるから、そなたの神通力を持ってしても消すことはできない。
この灯をささげた老婆は三十劫の後に功徳を成就して、須弥灯光如来(しゅみとうこうにょらい)という仏となるであろう。」

これがその話です。
布施とは本来こうあるべきものですが、心の弱い私たちにはなかなかできません。
老婆の心、見習いたいものです。
*劫…四十里(一里は四キロ)の高さの岩山に百年に一度天女が舞い降り、柔らかい布きれでその頂上を擦っていく。それを続けて岩山が無くなるのが一劫。気の遠くなる話です。

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2003/05  図に乗る

「息子のやつ、酒も少しぐらいはいいだろうと大目に見ていたら図にのりやがって、近頃は午前様だよ。」
「息子のやつ、ゴルフの筋がいいと褒めてやったら、図にのりやがって、近頃はゴルフ場に入りびたりさ。もうすぐシングルらしい。」
この二つの『図に乗る』の使い方、どちらが真意にかなっていると思いますか?
大概は前者の使い方をされていますが、本来は後者の使い方なのです。
『図に乗る』とは、仏様の徳をたたえる歌をインドの詠法で歌う仏教声楽を声明(しょうみょう)または梵唄(ぼんばい)というのですが、その声明の楽譜は図のように表されていて、それを『図』といいました。
そして、その『図』のとおりにうまく調子にのって歌うことを『図に乗る』といったのです。
この元来の意味がいつしか前者のような使い方をする時が本当の意味のようになって変わっていったのです。不思議なものですね。
ここで少し説明した声明、近頃はあちこちの会館やお寺などで公演されたりしています。
機会があれば一度お聞きになってみてください。

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2003/06  おっくう

「何をするにもおっくうだ」とよく言います。やる気が出なくて、面倒くさい時によく使われる言葉ですね。
『おっくう』は漢字に当てはめると「億劫」と書き、正しくは「おっこう」と読みます。
「億劫」は仏教で説かれる時間の単位で、億×劫のことです。
「劫」とは40里(1里は約4キロ、つまり160キロ)四方の立方体の岩があって、そこに百年に一度ずつ天女が舞い降り、柔らかい衣の袖でその岩を撫でることによってその岩がすり切れて消滅するまでの時間を「一劫」といいました。
つまり、「億劫」とはその億倍の時間ですからとんでもない時間になります。一般的に言うところの永遠になるわけです。
その時間のことを考えると気が遠くなってきますよね。何をしても永遠その時間が続く。ホントに嫌ですね(笑)
こういう事からこの言葉は生まれました。

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2003/07  夜叉

『夜叉』。ドラマや時代劇、マンガやアニメなどでもよく聞く言葉です。
昔の人は女性の事を次のように評しました。
「外面如菩薩、内面如夜叉」つまり、外面は菩薩のようにニコニコしてるけれども、心の中では夜叉のように恐ろしい、ということですが…。夜叉とは?となりますね。
『夜叉』とは、梵語「ヤクシャ」の音写です。古代インドの神の一つで、仏教でもこれを守護神の一体に加えました。北方を守る四天王の一つ、毘沙門天の眷属(簡単に言えば配下)です。守護神であるのに、いつの頃からか、人を食らう猛悪な鬼神とされるようになりましたが、この鬼神は悪人だけを食べて、善人は食べない鬼神です。ですから、「内面如夜叉」と見えるのはそう見る人の側に問題ありと見るべきですね。
ヤクシャはもともとは産土(うぶすな)の神、つまりはお産の神のような存在だったらしく、釈迦族、つまりお釈迦様の一族は子供が生まれたらヤクシャ像の前に連れて行く習慣があったそうです。
古代インドの彫刻を見ると、ヤクシャもヤクシニー(夜叉女)も穏やかな顔に作られているそうで、普通の人間として表現されているそうです。特にヤクシニーは生産力の象徴として尊ばれており、極めて豊満な肉体をした官能的な姿として表現されているそうです。
このように『夜叉』を見てみますと、現在使われている表現と言うより、正義の味方というような役割を持っていることに気がつきますね。いつもニコニコして、心の中で悪い人を探している。
私にはそのように思われます。

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2003/08  バカボン

『バカボン』。有名な漫画がありますね。「天才バカボン」として登場していますが、これも仏教語です。
漢字で書くと「薄伽梵」もしくは「婆伽婆」とも書きます。梵語バガヴァットの主格場がバガヴァンの音写で意味は「世尊」となり、つまりは仏の別名です。
釈尊の「釈迦牟尼」とは釈迦族出身の聖者という意味で、「仏陀」は「真理を覚った人」という意味です。つまり、釈迦牟尼という言葉は普通は三人称として用いられ、二人称で呼びかける時は「バカヴァン(世尊)」と申し上げたそうです。
「釈迦」と呼び捨てにするのは種族の名を指すことになり誤りと言うことになり、仏教信者でない者でも「釈迦牟尼」もしくは「釈尊」と書くべきであると、仏教学者の方はおっしゃられています。
「お釈迦様」と呼ぶのは親しみやすく一番良いのではないでしょうか。

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2003/09  無我

「我を忘れて無心のうちに…」ということで、日常的には使われています。
『無我』この言葉は仏教では重要な教えの一つで、単に「我を忘れる」という意味ではありません。

『我』というのは細かく説明すればどんどん難しくなりますので、簡単に説明を書きます。
『我』は仏教では「個人の中心主体」とされ、それは宇宙の根本原理と一体と考えられています。
なぜならば、この宇宙空間には他との関連無しに存在しているものなどないとされています。これを「諸法無我」といい、根本教義の重要な一つです。

これは仏教に説かれる「縁起」と同じ心理です。そしてこの心理は、科学の発達によって、交互作用があることが解明されるようになって改めて深く認識されつつあります。
宇宙に存在する万物・万象はお互いに関係しあい、バランスを取り、持ちつ持たれつして存在し、働いているのです。
すべての物の恩を感じなければならないというのは、単なる押しつけ道徳ではなく、この真理を知れば自然と感謝の気持ちが芽生えてくる物なのです。

「我を忘れて無心のうちに…」となったのは、『無我』とは事物に固定的実態がないこと、無自性の意味であると、後世になって考えられるようになったからです。この考えを「空観」といいます。
座禅をして無我の境地にいたる修練をするのは、この真理を自らを持って体験するためだと思われます。

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2003/10  元のもくあみ

『元のもくあみ』、漢字で書くと『元の木阿弥』となります。
いったんよくなったものが、また元のつまらない状態に戻ってしまった時等、また初めから…というようなときに使います。この『木阿弥』とはなんでしょうか?

『元の木阿弥』という言葉は、「仮名草子−七人比丘尼−」という本に登場します。
ある人が道心を起こして妻と別れて山中に入り、木食、つまり山の中にある食べ物だけを食べる修行をして、行い澄ましていました。その人のことを都では「木阿弥」または「木食上人」と呼んで尊敬していたそうです。
ところが、歳を取って心が弱ると、妻が恋しくなってとうとう山を下りて再び妻の元で暮らし始めたそうです。そんな姿を見て人々は嘲笑いながら『元の木阿弥』とその人を呼ぶようになった事から出た言葉だと言われてます。

『元の木阿弥』、短い人生の中ではあまりしたくないものです。はてさて、わたし自身もふまえ、あなたはどうですか?

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2003/11  どっこいしょ

歩いていて疲れて座る時、座っていて立ち上がる時、「どっこいしょ」とかけ声をします。
この言葉を使い出すと「歳だねぇ」と冷やかされたりしますが、さて、この語源はというと。
もともとは山岳仏教の修験者たちが山へ登る時に唱える言葉「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」から来た言葉なのです。

「六根」とは眼・耳・鼻・口・身・意という身体の五つの器官と意識の事で、神聖な山に登る時はこれらを清めて山を汚すことのないようにということで、「六根清浄、六根清浄」と唱えながら登るのです。
現在でも聖なる山に登る時はこの言葉を唱えながら登ります。

この言葉がいつしか訛り、「どっこいしょ、どっこいしょ」と変わっていき、疲れた時などに使われるようになったようです。
山へ登るのは大変だけれどもお寺参りはたやすいです。代わりに「六根清浄」と唱えながらお寺へ参詣するのはいかがでしょうか?

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2003/12  無事

現在は事故や病気、困難な障害がないこと等をこのように言いますが、元来は「なすべきわずらいのないこと」を言ったものです。

初期の仏教教団において、村里に住む出家修行者を「人間の比丘」、森林に住む比丘を「無事の比丘」といったそうで、『中阿含経』という教典にはこの「無事の比丘」の心得がこまごまと書かれているそうです。
大乗仏教へと時代が移り変わると、意味もだんだんと変わってきて、「ものごとにひっかかって迷う心のないこと」という風に変わってきたそうです。『臨済録』という書物には「無事これ貴人なり」と書かれており、これは「常識的な思想や分別に基づいて仏とか悟りとかを求めることをせず、ただ人間本来の姿に徹したそのままの人こそ尊ぶべきである」という意味だそうです。

そして現在では初めに書いたような意味となっているわけで、結局は「本来の姿、元通りである」という意味あいで使われるようになったみたいです。

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