著名人と学者達の墓



岡西惟中と妻の墓(左から1番目と2番目)

岡西(岳西)氏は名を勝、通称平吉または松永氏を名乗る。一時軒、閑々翁、竹馬童子、飯袋子(ハンタイシ)、北水浪士等と号した。
寛永16年(1639)因幡国鳥取に生まれる。延宝6年(1678)大阪に移り、正徳元年(1711)10月26日73歳で没し、当山境内墓地の土葬される。
年少の頃から俳諧と書道を好み、俳諧は西山宗因に、書道は青蓮院尊証法親王に、和歌は関盛貞および烏丸光広に、連歌は里村昌程に、漢詩は南源大和尚に学び、若くして博学多識で知られる。氏は俳諧、和歌、連歌等に関しては多数の著書があって有名であるが、自らの本職であった医、儒に関しては詳細不明である。岡西氏は当時檀中の有力者であった河崎氏(鉄問屋川崎屋)の懇望により当寺の縁起「寶樹山銀山寺興隆来由記」を執筆完成されたこと、また本堂前の山額に「寶樹山」と揮毫されたこと、さらに氏の晩年である宝永2年(1705)5月20日から23日まで当寺において連歌会を興行されたことなど、当寺と密接な関係にあった。

お千代・半兵衛の比翼塚(墓)(左から3番目)

享保7年(1722)4月6日、大坂油掛町の八百屋半兵衛と妻お千代が生玉の大仏勧進所で心中した。
半兵衛は八百屋仁右衛門の養子。半兵衛の旅行中に、妻お千代が養母によって離縁され、帰ってきた半兵衛は養母の翻意に努力するが果たせない。養母がお千代を離縁したのは、高額の持参金付の嫁を迎えたいためであった。この真相が世間に知れて養母の立場が悪くなるのを恐れた半兵衛は、死を覚悟し、自分がお千代を離縁したと狂言する。そしてお千代を連れて密かに家を出、心中を遂げた。庚申の夜であった。
この心中事件は、その直後に紀海音「心中二ツ腹帯」、近松門左衛門「心中宵庚申」(以上浄瑠璃)、また「新板宵庚申」(歌舞伎)に脚色されたが、特に「新板宵庚申」は大当たりをとり、そのため世上に広く知られた心中事件となった。
お千代は24歳で身ごもっていた。当寺の墓石にはその子のことが「離身童子」と記されている。過去帳にはお千代は川アや源兵衛の養子娘で油掛町八百屋半兵衛の妻、山城上田村平右衛門妹と記されている。川崎屋は代々当寺の檀家であり、この墓は比翼塚と言われている。

松本寛吾・乾知の墓(左から4番目と5番目)

寛吾の墓には、「石鉄松本先生墓」とある。石鉄は号で、寛吾は通称、名は通業という。伊予の出身で、京都の海上隨鴎(鴎は実際は區に鳥です。)(稲村三伯)門人。船場で開業し、蘭方医として名を知られていた。当寺の過去帳には天保6年の頃に「土葬3月16日松林院石鉄居士 45歳枩本寛吾」と記載されている。(枩は松の旧字)
乾知は寛吾の子で通称保三郎、伊予で生まれ、年少で豊後日田広瀬淡窓に学んだが、13歳の時上坂し、元大坂町奉行与力で陽明学者の大塩平八郎中斎の門人になった。16〜17歳の頃すでに成人の如しとその秀才をうたわれたが、天保6年(1835)7月16日23歳で病死した。中斎は乾知の早逝を深く惜しんだ。中斎の撰文で、門人松浦誠之の筆になる碑文は、惜しくも剥落著しいが、中斎の撰文で現存しているのはこの墓碑銘だけといわれている。

金子徳崇の墓(左奥1番目)

本姓は岡、名は通称清蔵、希山と号した。相模の国小田原、大久保侯の世臣金子徳辰の子である。元文元年(1736)命によって職に就き、父に従って大坂藩邸に来た。性敬慎率直、常に経史を読み、儒学を深めたが、寛保2年(1742)5月28日病没し、世人に惜しまれた。

六無管名先生の墓(右端)

戒名は観山六無居士。官名は熊五良である。文政5年9月22日没

京巌熊見先生の墓(奥右端)

戒名は見樹院得法京巌居士。俗名熊見三竹。天保10年4月14日没。妻の戒名は春花妙瑞信女で天保11年3月16日没。台石に嶋屋重兵衛とあるが、関係は不明。
吉田玉男の墓

1919年1月7日生まれ。昭和・平成期の人形浄瑠璃文楽の人形遣い。本名・上田末一(うえだ・すえいち)。
大阪府大阪市に生まれる。昭和8年(1933年)吉田玉次郎に入門し、玉男と名乗る。立役(男役)。
戦中二度出征。戦後『曽根崎心中』の徳兵衛役が当たり役となり、生涯で1136回務めた。抑制の効いた、理知的な動きの中に、秘めた情感や品良き色香を表現し、その技は最高峰と謳われた。
昭和52年(1977年)重要無形文化財保持者(人間国宝)認定、平成元年(1989年)勲四等旭日小綬章受章、平成9年(1997年)朝日賞受賞、平成12年(2000年)文化功労者、平成15年(2003年)京都賞(思想・芸術部門)受賞。
平成18年(2006年)9月24日、肺炎のため逝去。享年87歳。
国立文楽劇場が近く、お千代半兵衛の比翼塚が当寺にあるため墓地を生前に購入し、竿石の字も本人の直筆である。