シカ王ナンディヤ

昔、コーサラ国(古代インド一六大国の一つ)のサーケータの都に、たいへんシカ狩りの好きな王が国を治めていた。農村の人々にも畑仕事すら禁じて、辺り一帯をすべてシカ狩りに使っていた。家来も毎日そのお供をしなければならない。これでは人々は作物一つ収穫できず、生活が不安になっていた。
「困ったものだ」
「何かいい方法はないかな」
人々は寄り集まっては相談した。
「牧場のように、シカを一つの囲いの中に集めてしまうのはどうだろう」
一人が言い出した。
「それはなかなかいい考えだ」
「まずアンジャナ林宮苑【きゅうえん】を取り巻く門と壁を作り、その中に森のシカを追い込もうじゃないか」
「そうしたら門を閉めてしまい、王様は好きな時、好きなだけシカを殺せばいい」
「我々は自分の仕事ができるというものだ」

そうだ、そうだとみんなは勢い込んでこの仕事に取りかかった。このころ、森にはナンディヤという優れたシカの王がいた。頭がよく、堂々としていて、たいへん親孝行であった。
ある日、その父母とともに小さなやぶ陰に休んでいると、村人たちのシカを追い立てる声がこちらへ近づいてきた。のぞき見ると、手に手に矛【ほこ】や盾【たて】などの武器を持っているではないか。
ナンディヤは父母を驚かさないように、小さな声で言った。
「お父さん、お母さん、もうすぐ村人たちがこのやぶに入ってきます。そうすれば、たちまち私たちは見つけられてしまいます。助かる方法は一つしかありません。今わたしに大切なのは、わたしの命よりあなたたちの命です。わたしは彼らが近づいてきたら、このやぶの端から飛び出します。みんなはわたしに気を取られて追いかけるでしょう。こんな小さなやぶに一頭以上のシカがいるとは思わないでしょうから、あなたたちのところまでは探しにこないと思います。どうか気をつけてじっとしていてください」
彼は言い終わると一声高く鳴いて、やぶから走り出ていった。ナンディヤが思ったとおり、人々はみんな彼を追って走ってきた。ほかのシカといっしょに、彼は宮苑の中へ追い込まれ、門は閉められた。
それからというもの、王は毎日宮苑に出かけ、シカを一頭ずつ射殺して遊んだ。シカたちは、ただ震えながら自分の順番を待つしかなかった。みんな食欲をなくし、恐怖の中で毎日を過ごしていた。ナンディヤだけは落ち着いて池の水を飲み、牧草を食べて堂々と暮らしていた。彼の順番はなかなか来なかった。そうやって月日が過ぎていった。
宮苑の外では、ナンディヤも両親が、息子の身の上を心配しながら落ち着かない毎日を過ごしていた。
「あの子は象ほどの怪力なのだから、どんなことをしたってわたしたちのところへ帰ってこられるはずなのに」
母の言葉に父もうなずいていうのだった。
「あの子は強い足を持っている。苑の柵【さく】など一飛びで越せそうなものだ。あの子の所へだれかに使いにいってもらおうではないか」
両親は早速、道で出会った一人の男に尋ねた。
「あなたはこれから、どちらへおいでですか」
「わたしは都へ上るところだ」
「それはよかった。どうか都へ着かれましたら、わたしどもの息子、ナンディヤと呼ばれているシカにわたしどもの気持ちを伝えていただきたいのですが」
「いいとも、伝言を言ってごらん」
「ありがとうございます。わたしどもはご覧のように年老いております。愛する息子の顔が見たいし、また彼がそばにいてくれないと心細くてたまりません。あの子が、自分の強い足で柵を飛び越え、早くわたしどもの所へ帰ってきてくれることを願っていると、そう伝えてください」
男は快く承諾し、サーケータの都へと向かった。彼は都へ着くと、早速宮苑に出かけた。そして大きな声で呼んだ。
「ナンディヤ、ナンディヤ、お前はどこにいるのだ。」
すると、おおきなろっぱなシカが男のそばに走ってきた。
「わたしがナンディヤです。なんのご用でしょうか。」
男は優しくナンディヤに言った。
「ナンディヤ、苑の外でお前の両親はとてもお前を案じているよ。お前は象にも負けない力があるし、足も強い。どうして柵を飛び越えて会いにいってあげないのだ。あんなにお前の顔を見たがっているのに」
「わたしは飛び越えたければいつでも柵を飛び越えられます。けれどもそれでは、飲食をさせてくださっている王様にご恩が返せません。それにここにいる大勢のシカたちとも長くいっしょに暮らしました。わたし一人逃げて帰るわけにはいかないのです。わたしは王や仲間のシカに、なすべきことをしてから帰ります」
ナンディヤは、そう言って、うたを唱えるのだった。

青い草々  飲み水も

すべては王の  くださる物
どうして黙って  立ち去れよう
王の射る矢を  身をもって
わたしは笑って  受けましょう
それで許して  くれるなら
再び母に  会えるでしょう

男は到底【とうてい】ナンディヤの決心を変えられないのを悟り、帰っていった。

そしていよいよナンディヤの順番がやって来た。王や大勢の家来に見つめられながら、ナンディヤは苑の片すみにじっと立っていた。
ほかのシカのように死を恐れ、悲しい声を上げて逃げ回ったりはしなかった。ゆったりと立ち、彼はまるでなにかを教え諭【さと】してるような威厳【いげん】に満ちていた。王はどうしても矢を放つことができなかった。シカの偉大な風格に圧倒されてしまったのだ。
「王さま、どうなさいました。早く矢をお放ちなさい」
シカ王ナンディヤがりんとした声で言った。
「シカ王よ、どうしてもわたしにはそれができないのだ」
「王さま、いつも正しい道を歩み、気高い心を持つものの力がお分かりになりましたか」
シカはおごそかに言った。おうは心を強く打たれるものを覚え、そこへ弓矢を捨ててしまった。
「シカ王よ、わたしを許しておくれ。命のないこんな一本の矢だって、お前の徳の高さを知っていて弓から離れようとしなかった。それなのに、心というものを持っているわたしが、お前の気高さを感じる力がなかったのだ。わたしは恥ずかしい。お前を殺すことなどわたしにはできない」
王はナンディヤの命を助けた。また、苑の中でただ死を待っていたシカたちもすべて助けると誓った。そればかりではなかった。心を洗われた王は、この森に住むすべての獣、空の鳥、池の魚を安全に守ってやろうと決めたのである。
ナンディヤは、王がいつまでも正しく国を治めるようにと願い、次のようなうたを王に与えて宮苑を去っていった。もちろん愛する父母に会いにいったのである。

施しの  心を保ち戒めを

守り通せよ  大王よ
欲望を  捨てて正義と優しさと
常に努力を  絶やすまじ
ほかを害せず  怒りも捨てよ
耐える心と  真の目を
もって治国に  励むべし
これこそ王の  十法【じっぽう】ぞ
そのような  行い保ち努めれば
恵みは王に  満ちあふる

ジャータカ12

もくじへ