大ガニのはさみ

昔、ヒマラヤの大きな湖に、体中が黄金色で、畳十畳(たたみじゅうじょう)ほどもあるばかでかいカニが住んでいた。その大ガニは、湖に水を飲みにやってくる象を捕まえては食べていたので、ゾウの群れは怖がって、湖のほとりに下りてこようとはしなかった。

ところでそのころ、象の群れの王に一頭の子象が生まれた。その母親は、子象が大ガニに襲われないように、湖から遠く離れた田舎で子象を育てた。
子象は、母親の深い愛情に包まれ、やがて立派に成長した。その体は濃い紫色をしており、見るからにたくましい象になったのだった。
こうして若者になった象は、なんとかして湖の水が自由に飲めるようにしたいと思うようになった。そうするためには、あの大ガニをやっつけてしまわなければならなかった。
若者の象はやがて結婚したが、ある時彼は、結婚したばかりの妻を連れて、父親の所へやって来た。
「お父さん、わたしはあの憎い大ガニを、わたしの手で捕まえようと思っているんです。」
若者象は言った。
「そりゃむちゃだ。今まで、あいつに勝った者はだれもいないんだから。」
そう言って、父親象は盛んに引き止めたが、若者象の決心は固かった。
「象の王さまであるお父さんが承知してくれなければ、思いきって戦うことができないんです。」
「それほどまでに言うんなら、やってみてごらん。」
父親象は、しぶしぶうなずいた。

若者象は、早速湖の近くに住み象たちを集めると、連れだって、湖の見えるところまでやって来た。若者象はみんなを見渡して尋ねた。
「カニがわたしたちを捕まえるのは、湖に下りるときか、それとも水を飲んでいるときか、または岸へ上がるときだろうか。」
「あの大ガニが我々をねらうのは、いつも、岸へ上がるときです。」
「そうだそうだ。今までやられた者は、みんなそうだった。」
「ひきょうなやつだよ。安心して上がってくるところを、いきなり襲ってくるんだから。」
みんな口をそろえて言った。

大ガニの襲い方が分かった若者象は、みんなに命令した。
「じゃ、湖に下りて、そして水を飲んでから上がるんだ。」
若者象の目は、固い決意にみなぎっていた。
象たちは、若者象の命令どおりに動いた。ゾロゾロと群れを作って湖に下り、そして水を飲んで岸へ上がってきた。
計画どおりに、いちばん最後に岸へ上がった若者象を待ちかまえていたのは、ちょうど、鍛冶屋(かじや)が鉄の棒をはさむときの大きなはさみに似た大ガニのはさみであった。そのはさみは、がっちりと若者象の足を捕らえた。
「危ない。」
若者象の襲われる様子を見ていた彼の妻は、思わず大声で叫んだが、どうしようもなかった。
大ガニは、すごい力で夫の若者象を湖の中へ引きずり込もうとした。夫は、苦痛のために顔をゆがめた。妻はただ、ハラハラしながら見つめているだけであった。
「怖いよう。」
「殺されるのはいやだ。」
象の群れは、震えながら悲鳴を上げて、森の方へと一目散に逃げていった。妻はじりじりと後ずさりした。それを見た若者象は、うたを唱えて妻に告げた。

突き出た目の玉 硬い皮膚
鋭いはさみは 血にまみれ
水に住みつく お化けガニ
この怪獣に 我敗れ
動けぬ足も 口惜しく
我が惨めさを 嘆くのみ
ああ最愛の 我が妻よ
わたしを捨てては なりません
心の支えの 我が妻よ

これを聞いて、妻は引き返してくると、若者象を慰めるためのうたを唱えた。

愛する人よ 我が夫
どうしてあなたを 捨てられよう
この地の極みに 至るまで
我が最愛の 良人を

良人を勇気づけた妻は、今度は大ガニに向かって、哀願するようにうたを唱えた。

ナンマダー河で ガンジスで
それらの至る 大海で
あなたに勝る 者はない
勇者よ悟れ 我が嘆き
わたしの夫を 放したまえ

大ガニは自分をほめる女の声にうれしくなった。それに、必死になって夫を思う女がちょっぴりかわいそうになった。その時、若者象の足をはさみつけていたはさみがわずかに緩んだ。

その瞬間、若者象は素早く前足を上げると、思いっきり大ガニの背中を踏みつけた。すると大ガニの背中の骨は、メリメリと音を立てて割れていった。
若者象の喜びのいななきを聞いて、森に逃げ帰っていた象たちが続々と集まってきた。
「やった、やった。」
「この憎い大ガニめ。」
「くそ、これでもか、これでもか。」
象たちは、代わる代わる大ガニを踏みつけ、やがて、跡形もないくらいにめちゃくちゃにしてしまった。

ところで、大ガニからもぎ取られた二本のうちの一本は、水かさの増した湖からガンジス河へ、そして海へと流れていった。残りのもう一本は、ガンジス河のほとりで遊んでいた王家の十人の子供たちが拾った。子供たちはこのはさみでアーナカという太鼓を作った。海に流れたほうのはさみは、阿修羅という悪神が拾って、アーランバラという鼓を作った。

その後しばらくして、阿修羅は帝釈天と戦争をしたが、戦争に負けた阿修羅は、この鼓を捨てて逃げていった。そこで帝釈天は、鼓を自分のものにした。
インドで、「アーランバラの雲のように雷が鳴る」という言葉があるが、それは、この鼓を打つときの音と雷の鳴る音が似ているからであるという。

ジャータカ267

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